2017 Fiscal Year Annual Research Report
近世巨大都市における「町」の総合的研究―大坂を対象にして―
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17J11400
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Research Institution | Osaka City University |
Principal Investigator |
呉 偉華 大阪市立大学, 大学院文学研究科, 特別研究員(DC1)
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Project Period (FY) |
2017-04-26 – 2020-03-31
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Keywords | 道修町三丁目 / 御用宿 / 町運営 / 空間構造 |
Outline of Annual Research Achievements |
今年度は①修士論文の成果を整理し直し、その内容を学会・シンポジウムなどで報告を行った。修士論文では個別用の運営構造を明らかにするべく、道修町三丁目を対象として、御用宿の勤め方と町運営との関係の解明に取り組んだ。その前提として、都市大坂における御用宿のあり様(ⅰ毎年8月の在番衆を対象とする御用宿とⅱ18世紀半ば以降、西国へ往来する長崎役人の臨時御用宿)を明らかにした。その上で、ⅲ道修町三丁目の町内構造と御用宿の勤め方について分析を行った。ⅰとⅱについて、学会とシンポジウムで研究報告を行った。②研究課題「道修町三丁目の社会=空間構造の具体的な解明」に取り組むため、史料収集と分析を行った。19世紀初期と中期の水帳と宗旨巻・宗旨人別帳を分析し、文政8(1825)年の町内の家屋敷所有状況と明治初期の町内構造を復元した。③幕末の特別な時期の道修町三丁目の御用宿に関する史料の収集も行った。そのうち、将軍の進発に伴って、多くの幕府役人が道修町三丁目に泊まった際の慶応年間の記録に注目し、通常時の臨時御用宿と特別体制の下での御用宿の体制と入用の仕方を比較した。④2017年8月10日~11日に、中国北京で国際的な比較史料論をテーマとして行われた国際シンポジウム「中国古文書学国際研討会」に通訳の立場から参加した。このシンポジウムに参加して、日本近世の個別町における史料の残り方と町の運営構造について改めて考える機会となった。また、当日の塚田孝氏の報告内容となる論文を翻訳した。当論文は2018年に出版する大会の論文集の中に掲載される予定である。⑤大阪市立大学日本史教室と和泉市教育委員会の合同で行っている合同調査に実行委員長として参加した。自らの研究テーマである都市の社会構造と合わせて、地域の社会構造と「村」の史料の残り方を知る良い機会であった。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
現在、博士論文に向けて、個別町の空間構造と住民構成を明らかにしつつ、御用宿の勤め方を通して、個別町の運営構造の解明にも取り組んでいる。①修士論文で明らかにした近世都市大坂における御用宿のあり様をもとに、口頭報告を行った。また、報告内容を基礎に、そこから得られた論点を深めながら、投稿論文の発表に取り組んでいる。②道修町三丁目の社会=空間構造を具体的に解明するため、19世紀初期と中期の水帳と宗旨巻・宗旨人別帳を分析し、文政8(1825)年の町内の家屋敷所有状況と明治初期の町内構造を復元した。こうした分析を通じて、同町には、18世紀に過半の家屋敷が居付家持であったが、その状況は19世紀に入っても変わっていなかったことが分かる。また、居付家持=町人の職業について見れば、大工や両替商も存在しているが、薬種中買仲間が居付町人の中心を成しており、高い集住率を示したことも明らかにした。③幕末の将軍進発時の異例の大規模な御用宿について史料を収集し、新たな分析を行っている。現在までに、以下のようなことを明らかにした。ⅰ将軍進発という特別体制の下で、幕府役人のために通常より大規模かつ長期の宿の提供が求められた。道修町三丁目の場合は、居付家持だけではなく、他町持まで動員され、半分以上の家屋敷が徴発された。②平均宿泊人数は10人を超えており、滞在期間は5月初めから10月までおよそ5ヶ月間であった。通常時の御用宿の滞在期間は5日間ぐらいだったので、将軍の大坂滞在に伴う役人の滞在期間ははるかに長かった。③宿の諸入用について、臨時御用宿の場合は三郷全体への割り掛けが基本であったが、今回は、滞在者の食費などはすべて町奉行所から支給された。 これらは、個別町の社会構造と運営構造の解明につながる有効な分析である。以上から、現在の研究が着実に進展していると自己評価している。
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Strategy for Future Research Activity |
今後、道修町三丁目の運営構造を具体的に把握し、同町の社会=空間構造と運営構造の両面を統一的に把握することを目指す。そのうえで、個別町と都市の複合構造との関係を検討していく。①18世紀以来、薬種中買仲間が居付町人の中心を成しており、高い集住率を示したことと19世紀以降、町人が自らの居宅より町会所を優先して御用宿として提供する傾向があることを念頭に置きながら、居付町人の経営のあり方と御用宿負担や町内の運営構造の関係について、今後さらに関係史料を収集し分析を行う。また、②幕末の将軍進発に伴う大規模な御用宿の実態を分析しながら、道修町三丁目の町人たちはどのように対応したのかについて考察を行う。そのうえで、幕末の緊張状態の中における町内の社会諸関係を検討する。③将軍進発時の大規模な御用宿の徴発について、町触では大坂三郷の町々から一町に5、6軒ずつの宿を提供することが命じられたが、道修町三丁目の場合、その三倍を越えていた。これは、北船場という中心地域に宿の徴発が偏った可能性があるが、今後、地域の特質という視点から菊屋町(道頓堀周辺の後発開発地)と御池通五・六丁目(17世紀末開発の新地)に残されている史料を調査、分析し、大坂の中心地域から離れている町々とも比較してさらに分析を行う。④大坂の町会所の機能について、町会所は町運営の場であり、町代らの執務の場と文書館の役割を持つとともに、臨時の宿舎など多様な機能も持っていた。今後、町の運営構造と町会所の関係を念頭に置きながら、江戸と京都の「町」の研究を参照して比較史的な考察を行い、大坂の都市社会構造の特質についてさらに考察を行う。
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