2018 Fiscal Year Annual Research Report
近世巨大都市における「町」の総合的研究―大坂を対象にして―
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17J11400
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Research Institution | Osaka City University |
Principal Investigator |
呉 偉華 大阪市立大学, 大学院文学研究科, 特別研究員(DC1)
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Project Period (FY) |
2017-04-26 – 2020-03-31
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Keywords | 巨大都市大坂 / 御用宿 / 将軍御進発 / 個別町 / 道修町三丁目 |
Outline of Annual Research Achievements |
本年度は、①修士論文の一部を発展させて、論文「都市大坂の御用宿と町方―大番頭・大番衆を中心としてー」を21号の『都市文化研究』(19年3月、13-25頁)に発表した。本論文では、都市大坂において、毎年八月に交代する番衆の御用宿の範囲と担い手・それを調達する存在のあり様を明らかにした。また、八月の交代時期より一定の期間前に、宿割役人という先乗り役人がまず大坂に来て、宿割の作業を行い、市中のどの町が宿を勤めるのかを決めるという宿を調達するプロセスも明らかにした。さらに、この宿割の背景には、大番頭、加番、大番衆という役職と石高の違いとそれに伴う大坂町人との関係の違いがあったことを指摘した。また、以上の成果を踏まえて、②大番衆の御用宿を勤める道修町三丁目の事例を素材として、個別町がどのように御用宿を勤めたのかを明らかにした。これについては、2018年12月1日~2日に中国上海で行われた国際シンポジウム「日中比較都市史研究」(学術検討会“中日城市史研究与比較”)で「近世後期における道修町三丁目の運営構造について―御用宿を素材に―」というタイトルで報告を行った。また、その内容をまとめて、三都研究会国際シンポジウム報告書『近世巨大都市の社会構造と史料』(19年3月、80-95頁)に発表した。③幕末の大坂における個別町の社会構造とそこから明治初期に至る変化を解明するため、道修町三丁目文書と御池通五丁目・六丁目に関する小林家文書に含まれている将軍の御進発に伴う御用宿の史料を調査・分析した。④茨城県立歴史館に所蔵されている谷田部藩細川家文書13点を調査・撮影した。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
本年度は、主に三つの方向から研究を進めている。①大坂城の守衛に当たって、毎年8月に交代する大番頭・大番衆と加番(その家臣と武家奉公人を含めて)の御用宿の勤め方について、学術雑誌に論文を発表した。そこでは、大番頭・加番・大番衆と大坂の有力商人と町方の関係を明らかにした。つまり、大番頭・加番の本陣は彼らと出入り関係を持つ大坂の有力商人が所有している家宅や掛屋敷に置かれた。そして、その家臣の下宿は本陣が置かれている町の周辺の町々が勤める。一方、東組と西組に分けられている大番衆の宿は、近世中期から船場36町と上町47町が組合町として勤めていた。②大番衆の御用宿を勤める船場36町に属する道修町三丁目を対象にして、個別町の御用宿の勤め方については、家持町人が本来、自分の居宅で宿を勤めるのが原則であったが、実際には町内の会所屋敷に宿泊させ、町人たちに雇われた町代らが実務を代行するようになった実態を明らかにした。これについて、国際シンポジウムで報告を行い、論文を発表した。③幕末の14代将軍家持の「御進発」に伴って、膨大な幕府役人は数か月にわたって大坂の町方に宿泊した。その際の道修町三丁目の対応について分析を進めた。従来の御用宿の勤め方と違い、将軍進発という特別体制の下で、大坂に滞在する大規模な幕府役人の居所を提供するため、家持町人だけではなく借屋人まで動員されることになった実態を解明した。 以上のような研究成果に基づいて、現在まで研究がおおむね順調に進展していると評価できる。
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Strategy for Future Research Activity |
幕末期に、14代将軍徳川家茂は合計5回大坂にやって来た。そのうち、慶応元年閏5月の来坂は第二次長州征伐のための「御進発」という位置づけであるが、一年以上大坂に滞在することになった。将軍の御進発に伴う来坂の幕府役人と各藩家中の人数が非常に多いため、大坂の町方は膨大な人数の宿を提供しなければならなかった。道修町三丁目は、慶応元年閏5月末から12月末まで、幕府の書院番五番組と持筒頭一組の役人たちと勘定吟味役(合計100人ぐらい)の宿を提供した。当時の道修町三丁目には家屋敷が29軒あったが、裏借屋と狭い表店が密集している家屋敷・家宅の狭い家屋敷(合計7軒)を除いて、すべて御用宿として徴発された。このうち、借屋に供されていた家屋敷なかの借屋人5名の家宅まで御用宿として提供された。また、道修町三丁目では、大規模な御用宿に伴う多大な出費を抑えるため、町の運営主体である家持町人たちは借屋人に対して、必要な労働力と蚊帳・蒲団の提供を求めた。つまり、将軍進発という特別体制の下で、大坂に滞在する大規模な幕府役人の居所を提供するため、家持町人だけではなく借屋人まで動員されることになった。これ以前には御用宿を勤めたのは公儀の役を負担する家持町人だけであったが、幕末の御用宿の徴発は借屋人にまで及び、個別町全体の負担となったと位置づけられる。それだけではなく、銅座に近いため、道修町三丁目を含む周辺の町々の会所は勘定所役人の宿も提供していた。ここからは、地域ごとにどの役職の役人の宿を提供するかの範囲が設定されていた可能性が高いと思われる。これについて、今後小林家文書に残された史料をさらに分析し、堀江地域の状況を検討する。そのうえで、道修町三丁目が属している船場北部地域と堀江地域の状況を比較し、大坂市中での地域性を浮かび上がらせる。
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Research Products
(5 results)