2006 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
18520074
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Research Category |
Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
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Research Institution | Osaka Prefectural College of Technology |
Principal Investigator |
湯城 吉信 大阪府立工業高等専門学校, 総合工学システム学科, 助教授 (90230614)
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Keywords | 中井履軒 / 懐徳堂 / 暦法 / 時法 / 華胥国暦書 / 華胥国新暦 |
Research Abstract |
未発表ながら、「中井履軒の暦法と時法-その『華胥国暦』を読む」という論考をまとめた。以下はその概要である。 中井履軒は、『華胥国暦書』『華胥国新暦』という二種類の太陽暦を残している。本稿では、履軒がなぜそのような暦を作ったのかを明らかにした。 第一章では、履軒の二十四宿説について分析した。古来、中国では惑星の位置を表示する座標として二十八宿が使われる一方、黄道を十二等分する十二次も存在した。履軒は両者の並存による不合理をなくすために、等分法である十二次を基準に二十八宿を二十四宿にすべきだと考えた。 第二章では、履軒の十二支に関する考えを分析した。履軒は、十二支はもともと黄道十二宮に由来し、十二箇月の名であったとし、方位や時刻に当てはめるのは後世の附会であるとして退ける。また、日を数えるための十干と月を数えるための十二支とを混淆することに反対し、天の十二支が十二次と逆方向になっている不合理を補正している。 後世、十二支を時刻、方位などに適用したのは、万物に五行を当てはめるのと同じく附会であり、履軒の論は卓見と言うべきである。そして、その根拠とする古書研究に基づく歴史認識もおおむね妥当である。ただし、その合理性の追究のために、否定したい対象(斗建など)をすべて漢代に西洋から伝わった説だとするのは歴史的根拠に欠ける。 第三章では、履軒の時法について分析した。自らの十二支認識に基づき、履軒は十二支で時刻を表すことに反対した。履軒は『春秋左氏伝』などを根拠に、古代は一日十時であったと考えた。履軒は以下のように推測した。まず、代は十時で百刻であった。それが、前漢の哀帝と新の王莽の時に、西方起源の十二時百二十刻を採用した。後、百二十刻は廃して百刻に戻したのに、十二時法だけはそのまま使ったので、今のような不合理が生まれた、と。 事実は、履軒の考えるように単純であったかどうかはわからないが、履軒の論は『漢書』の記述に基づき、歴史的根拠が明らかである。また、漢代に十二支が時刻に当てはめられたという説は現代の定説に合う。十二時西方起源説は、斗建に関してよりも根拠が確かであると言える。履軒が、十二支の方位への転用や二十八宿、斗建などをすべて王莽の改制時に導入された蛮法だとして否定するのは、おそらくこの時法に関する研究を援用したものであろう。 第四章では、以上の分析に基づき履軒の暦の意味を考察した。履軒は自然の摂理に従い冬至を暦元と考える一方、人事の都合からは立春を歳旦とすればよいという考えを持っていた。『華胥国暦書』では十二月が用いられているが、『華胥国新暦』では月が廃されて、二十四節気が用いられているのは、履軒が月の否定へと向かった過程を表している。また、『華胥国暦書』に「一昼夜十時百刻」とあるのは、時法に関する考えの反映である。
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