2008 Fiscal Year Annual Research Report
第1次世界大戦と中東の生成-イランの為替と金融を中心として-
Project/Area Number |
18530271
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Research Institution | Osaka University of Commerce |
Principal Investigator |
水田 正史 Osaka University of Commerce, 総合経営学部, 教授 (80219633)
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Keywords | 第1次世界大戦 / 中東 / イラン / イギリス / ロシア / ドイツ / イラク / コンスタンティノープル協定 |
Research Abstract |
1915年初め、200名ほどのドイツの工作員がイランに潜入した。イギリスは、ペルシャ湾の奥における自らの権益を守る決意であり、このため、インドから部隊を派遣した。イギリス軍はバグダード奪取を目ざして進撃するが失敗する。ドイツはイランを東方へと突破しようとしてアフガニスタンに達するが、イギリス帝国を震撼させるには至らなかった。 1915年のコンスタンティノープル協定は「海峡問題」とイラン問題とが1つの文脈に統合された主な事例としては最初のものであり、「中東世界」生成を告げるものであった。 1915年はイランにおいて同盟側の成功が目立った年であった。首都においても地方においても、ドイツの工作員が公然と人々に武器を提供した。テヘラーンでは、イギリス・ロシア両公使の働きかけによって8月に新内閣が誕生した。11月にはロシア軍がアンザリーに上陸した。ロシア軍はテヘラーン近くにまで進軍した。この事態をドイツが逆手にとった。首都をエスファハーンへと遷そうとしたのである。これをペルシャ語でモハージェラートという。テヘラーン近くのロシア軍は撤退した。モハージェラート参加者はゴムに臨時政府を樹立し、さらにエスファハーンへと移動した。 この間、協商側にとってテヘラーンの状況は改善したが、地方の状況は大変悪化していた。イラン南部のほぼ全域が同盟側の工作員の影響下に入った。ロシア軍はカーシャーンにまで達した。12月25日、ファルマーンファルマーが政権を握り、30日にはジャンダルメリーのスウェーデン人指揮官エドヴァル大佐が解任された。
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Research Products
(2 results)