2019 Fiscal Year Annual Research Report
想像界概念を軸としたジャック・ラカンの精神分析思想の変遷についての研究とその応用
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18J22163
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Research Institution | Kyoto University |
Research Fellow |
山崎 雅広 京都大学, 人間・環境学研究科, 特別研究員(DC1)
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Project Period (FY) |
2018-04-25 – 2021-03-31
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Keywords | 精神分析学 / 精神病理学 / 病跡学 / フロイト / ラカン / クロソウスキー |
Outline of Annual Research Achievements |
当該年度は、これまで通り、想像界概念の通史的変遷を追跡するため、成果をあせらず、着実かつ地道にテクストを読解した。そのテクストは、主として、フロイトやラカン、クロソウスキーであった。 まず、ラカンについての実績については申し述べる。彼の鏡像段階論について、心理学史のなかに置き直す作業を行った。研究によれば、彼の述べている実験とは、ワロンが引いているダーウィンの実験にその由来がある。しかしラカンはダーウィンという起源を隠蔽し、ボールドウィンだといっている。鏡のなかに自らを見出すということが主体の誕生と積極的に結びつけられるように考えられ、ギャラップ以来の「斑点課題」が人間に導入され、鏡の問いが、心理学において前景に浮かんだのは、おもに1970年代のことである。それ以前、ダーウィンの観察の場合、鏡の像と己を結びつけるような観察結果は、「私」という語と鏡像の一対一対応がなされているか、つまり連合心理学的観点からなされていたのである。この連合心理学的観点からなされた実験に、ラカンは、「主体の誕生」を見た。つまり、彼の鏡像段階論は、本来、連合主義的観点からの問いにしか答えるようにつくれられていないものを、主体の問題へ無理に接続するという力技に依っているのである。この意味で、おそらくラカンは、先に述べた70年代に心理学において前景化する、鏡と主体の問いの先駆者となっている。この点に関して、東京精神分析サークルで発表し、論文を投稿した。 クロソウスキーについては、まず彼の永劫回帰についての思弁が、基本的にニーチェにその根拠を求めようとしてもなかなか厳しいものであること、そしてそのことに関しての開き直りこそがかえって、一連の彼の作品を可能にしたことがわかってきた。このことは、現在、修正要求があり戻ってきた論文にあらためて盛り込まれねばならない。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
現在まで、気の遠くなるような努力を文献読解に費やしてきたが、当該年度の9月末から、抑うつ的な気分が亢進してきて、これまでの精度で文献を読むことが困難になった。この症状は、新年に入ってから恢復してきたといえる。この3ヶ月、4ヶ月のあいだは、おもに、これまでわかってきたことを文章におこしてみる期間であったが、やはり個人的には、停滞している、というかんじがあった。それ以外の時期は、流れるように文献を読んで、着想などもそのなかで次々に湧いてきた。 その流れのなかで、とくに進捗したと思うことは、クロソウスキーに関するぶぶんである。次のようなことがわかった。クロソウスキーがニーチェの啓示をめぐって記述するような「思考の道筋の一貫性」については、それはニーチェが晩年において自我同一性を崩壊させたことを知っているから、その結末があるとすれば、過程においてなにが必要かを「考えて」、そういう逆算から出てくるロジックに思える。つまり彼の主張は、ニーチェの永劫回帰に関してひとつの「偽の命題」をでっちあげることにあるようにも思える。そしてそれでよい。クロソウスキーはこういうことについて、ある種、開き直る瞬間があったはずだ。そのとき彼にとって問題系が変わった。 問題は次のようになった。自分のニーチェに関する主張がある種のウソであるとして、それを人に疑いようもなく信じさせるために、そのとき、どれだけ自分自身の身体を支出できるか、ということに関心が移った。つまり、ニーチェに関する解釈においてニーチェに起こっていた(はずの)ことを真理として流通させるために、自分にもそのことが起こっていることを偽装しはじめた。それが彼の作品であるといってもいい。そしてそれは、ニーチェが個人的な体験でしかない永劫回帰を、万人に対する試練として与えるときに実行していたことでもある。 以上より、おおむね順調に進展している。
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Strategy for Future Research Activity |
これまで通り、文献の精緻な読解を続行しつつ、それを成果をあせらず、ゆっくりと文章にしたり、発表したりすることに尽きる。とくに、わたしの研究は概念の通史的変遷を追うものである以上、またラカンの場合、晩年のテクストが初期のテクストに対する応答になっているケース等もあり、昨今の研究水準を鑑みるに、成果欲しさにあわてて、一部のセミネールや著作だけを読んでラカン「全体」についてなにかを断定的な調子で述べることは慎重に避けられるべきであるからこそ、なおさらである。とはいえ、それでは読む量からしてあまりにも果てしない作業となるので、やはりどこかで区切りというか、労力を減らすべき箇所が出てくるだろう。 たとえば、これまでは基本的にすべてのテクストを読みながら、ノートをとる、という方法に依っていたが、これだと時間がかかりすぎる。そこで、研究テーマである、身体や想像界に関する箇所をあらかじめ、ラカンの論じたテーマごとになっているindexで拾っておき、その該当箇所についてだけ、ノートをとるようにし、それ以外の箇所については、速読して済ませる、とかするのがよいと思う。 個人的に、クロソウスキーについては、そのようにしたくない気がする。彼のテクストは、ラカンに比べたらすくない、まだしも十分にすべてを精読できる、ということもある。 ともかく、労力の節約について考えながら、これまでのような質の読解を維持することがこれからの課題となるわけで、その補助として、PDFリーダーなどの電子機器の力を借りようと考えている。また精読の必要なものについては、現在も行っているが、読書会を積極的に利用していきたいと思う。
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Research Products
(1 results)