2021 Fiscal Year Research-status Report
近代揺籃期における教育関連語彙の翻訳と受容に関する歴史研究
Project/Area Number |
19K02494
|
Research Institution | Hokkaido University |
Principal Investigator |
白水 浩信 北海道大学, 教育学研究院, 教授 (90322198)
|
Project Period (FY) |
2019-04-01 – 2023-03-31
|
Keywords | ディスキプリナ (disciplina) / ラテン語語彙史 / サン・ヴィクトルのフーゴー / キリスト教的規律 / 習慣成型 / 道徳性の教導 |
Outline of Annual Research Achievements |
前年度までのeducatioに関する研究展開を踏まえ、2021年度は、教育言説を領導してきたもう一つの語彙、disciplinaの用例に焦点を当て、中世以来、この語がどのような語義と用法を担ってきたのかを解明することに従事した。 『ディダスカリコン』で知られるサン・ヴィクトルのフーゴーは、修道士見習い向けの振る舞い指南書、『修錬者の教導』を著している。本史料は修錬者の態度、話し方や立ち居振舞い、衣食といった日常生活の隅々にわたって、いかに振舞うべきかについて詳細に扱った文献である。中世盛期を代表するdisciplinaの書と評される本史料は、「中世文明がeducationという観念をもたないでいた」というアリエス・テーゼに一石を投じる一方、本書を領導していた言葉はeducatioではなく、disciplinaであった点は注目に値する。2021年度は、本書の要石に据えられたdisciplinaに着目し、その語義・用法を古代ローマ喜劇からキケロ、セネカを経て、初期キリスト教における聖書翻訳、教父神学にまで遡り検証することにした。その上で、キリスト教的disciplinaを継承・発展させたフーゴーにおいて、disciplinaによって編成・継承された〈教導的なるもの(le pedagogique)〉がどのような視座の下にいかなる歴史的性格を有するのかについて検討した。 中世修道院において伝承されたdisciplinaの思想は、近代揺籃期の翻訳文化を経ることで、ギリシア語agogeの訳語を契機としてeducatioを〈榮養〉から〈教導〉へと転回させ、その語義を摺り換えるにいたる。そして修道院から学校へと教導の舞台を移しながら、近代教育学(pedagogy)を規定していく語彙基板を創出する。こうした〈教導的なるもの〉をめぐる語彙について基本的知見を新たに得ることができた。
|
Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
1: Research has progressed more than it was originally planned.
Reason
本研究は15~16世紀におけるギリシア語・ラテン語から西欧諸語への翻訳文化を背景に、〈教育(education)〉がいかに生じ、近代教育言説を領導していくのかについて検討する目的で着手された。前年度までの研究では、まずはラテン語educatioを軸にこの語がギリシア語及び諸俗語にどのように翻訳されたのかを中心に検証し、プルタルコス『子どもの教育について』を西欧教育言説のロゼッタストーンと目して、その訳語対応(語彙基板)を浮かび上がらせることに概ね成功した。 こうした研究前半の成果から見えてきたのは、educatioがギリシア語agogeの訳語として次第にdisciplinaと混用されてきた歴史的過程である。本年度からの研究では、この点を踏まえて、disciplinaについてその語彙基板を明らかにする作業に着手した。古典ラテン語ではあまり用いらなかったeducatioと異なり、disciplinaの用例はラテン語文献に広く分布し、その用例をピックアップすること自体、かなり難航することが予想された。しかし、近年、整備が進んでいるデジタル・アーカイブを活用する手法を開発・確立し、かつては考えられなかった精度でもって、disciplinaの用例を悉皆的に収集することが可能となった。こうして得られた研究成果は、disciplinaの用例とその訳語・文脈対応を一覧に供すべく、エクセルにデータ入力して蓄積してあり、そのエッセンスは北海道大学大学院教育学研究院紀要に発表してある。 他方で、当初、海外史料調査を敢行する予定であったが、新型コロナウィルス感染症の感染拡大によって史料調査を見合わせざるを得なくなったのは痛手であった。しかし、デジタル・アーカイブの充実によって、研究を企画した際には予期していなかった困難も補われ、研究は当初の計画以上に進展していると判断できる。
|
Strategy for Future Research Activity |
本年度の研究成果として、サン・ヴィクトルのフーゴー『修錬者の教導』に即して、ラテン語disciplinaの語義・用法の系譜を押さえることができた。本書が修道士見習いのために著述されたという性格上、ここで得られたdisciplinaの用例は修道院向けのものではないかという史料上の限界を孕んでいる。そこで最終年度にあたる次年度は、一般信徒の教誨のために著述された大グレゴリウス『司牧規則』を読解することにした。すでにdisciplinaの用例を23箇所抽出し得ている。今後、各用例が本書の文脈において有する意義、特徴を分析・読解する計画である。 またラテン語disciplinaは中世までの〈教導的なるもの〉を領導する語彙であり、近代以降、education(及びそれに相当する諸俗語語彙)によって担われる。この語彙基板の転回を十全に理解しておくため、ラテン語paedagogia(paidagogia、子どもの導き)についても検討しておく必要がある。ギリシア語agogeを軸とする魂や子どもの導きの技術がいかに構想・錬磨され、近代以降educationを僭称するにいたるのか、用例データの収集と分析を蓄積していくことにしたい。 また教育思想史研究においてデジタル・アーカイブを活用するという、本研究が切り拓こうとしている新たな手法を方法論として整える努力も不可欠である。従来の思弁的な教育思想史研究から、語彙データに基づく歴史的マテリアリズムに立脚した手法の可能性と限界、研究対象となる史料と実証手続き(documentation)の課題について再検証し、このようにして得られた新たな教育思想史像が、既存の思想史像に照らして、どのような見直しを迫り、いかなる可能性を有するものであるのか、外部からの批判をも請うことで、教育思想史研究のデジタル化へと貢献していく予定である。
|
Causes of Carryover |
新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、感染予防の観点から海外渡航が大幅に制約され、予定されていた海外史料調査及び国内史料調査を見送らざるを得なくなった。また予定していた研究補佐員によるデータ入力作業も感染症拡大防止という観点から実施することが難しい局面が続いた。そのため、旅費及び謝金として計上していた金額相当を次年度使用額として繰り越すにいたった。 新型感染症の感染拡大の終息状況及び欧州の地政学的リスクをも睨みながら、基本的には、旅費として使用することを計画している。ただし次年度も史料調査を抑制すべき状況が続くことは十分考えられる。そうした場合には、現物史料の購入、ミーニュ教父全集のデータベース使用料及び用例データベースへの入力作業を委託できる研究補佐員の謝金など、柔軟かつ適切に使途を検討していくものとする。
|
Research Products
(1 results)