2011 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
21520699
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Research Institution | Setsunan University |
Principal Investigator |
美川 圭 摂南大学, 外国語学部, 教授 (20212227)
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Keywords | 延暦寺強訴 / 興福寺強訴 / 建春門院 / 高倉天皇 / 天台座主明雲 / 鹿ヶ谷事件 / 藤原成親 / 西光 |
Research Abstract |
本年度は、延暦寺と興福寺の強訴に対する後白河と平家の対応の相違、鹿ヶ谷事件における後白河と平家の対立が寺社問題とどのように関係するかについて検討した。嘉応元年(1169)の延暦寺強訴において後白河が屈服した理由は、平家の総帥である清盛が延暦寺との衝突を回避しようとしたためであった。ところが、承安3年(1173)の興福寺強訴においては、後白河は興福寺およびそれに加担した東大寺の末寺含む荘園の没収という強硬手段をとることに成功する。これは、平家が摂関家領押領問題に関係して、摂関家と深い関係にある興福寺と対立していたため、軍事的に強硬であったためである。また、この背景には承安元年(1171)に高倉天皇の母建春門院のはたらきによって、清盛の娘徳子が入内し、後白河と平家との関係が深まったことも一因である。しかし、その建春門院が安元2年(1176)に死去する。後白河の寵愛をうけていた建春門院は、清盛の妻時子の妹であり、中宮徳子の母であったから、後白河と平家との関係に亀裂がうまれるきっかけとなった。翌安元3年におきた延暦寺強訴では、後白河は天台座主明雲を逮捕し還俗させて伊豆に配流するが、僧徒に身柄をうばわれた。後白河は延暦寺攻撃を平家に命ずるが、その混乱のなかでおそらく院近臣による清盛暗殺計画を疑った平家は、藤原成親や西光らの逮捕にふみきった。これが鹿ヶ谷事件である。こうして、後白河と平家との提携関係は破綻する。保元平治の乱以後、王家に包摂されていた平家が、軍事権門として自立する。その変化が、この時期の後白河と平家との関係に大きな影響をあたえていたことが、はっきりわかる。
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Research Products
(4 results)