2010 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
22520683
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Research Institution | Prefectural University of Hiroshima |
Principal Investigator |
松井 輝昭 県立広島大学, 人間文化学部, 教授 (70310836)
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Keywords | 日本史 / 思想史 |
Research Abstract |
平成22年度は厳島神社の社殿がなぜ危険な海浜に設けられたのか、厳島神社を取り巻いていた宗教空間構造がどのようなものであったか、この二つの課題について主に検討を行った。 まず、第一の課題に関して、次のような見通しが得られた。厳島神社の社殿は御霊川・滝川の河口の海浜に建つが、これは熊野修験が厳島に熊野三山のミニチュアを作ろうとしたことに由来する。御霊川・滝川の河口に両川に挟まれたように立地する厳島神社は熊野本宮、白糸の滝のしたに設けられた滝宮は熊野那智大社、地主神大元神社は熊野新宮に比定できる。厳島神社が観音菩薩の霊場となったのも、熊野修験とのこのような関わりを前提とすれば首肯できる。なお、厳島では滝宮と厳島神社の本社のみ「御前」という尊称が用いられ、いずれも「乾」の方角を向いている。滝宮は厳島神社の前身と考えられる。ただ、厳島神社の社殿が建てられた海浜は、スクナヒコナとオオナムチの故地であり、この両神との関わりはのちのちまで続くことになった。 第二の課題については、「ケガレ」の忌避を手掛かりとして、厳島門前町における宗教的空間構造を明らかにした。厳島の住人の生活空間は島の北側の二つの谷にほぼ限られる。しかし、「ケガレ」を厳しく規制したのは西町と呼ばれる、経の尾と塔の岡のあいだに広がる谷であった。西町で「ケガレ」に触れた人は奥山を通り、この谷の外に一時的に身を置かねばならなかった。厳島門前町は江戸時代前期にかけて、塔の岡から宮の尾のあいだの谷にも広がった。この谷はのちに東町と総称されるが、「ケガレ」を忌避する意識は西町より弱かった。東町は厳島神社との距離、「ケガレ」を忌避する意識の強弱により、三つの区分が認められる。東端の新町には江戸時代前期に、広島城下から「ケガレ」と関わる遊廓が移された。このように厳島門前町では幾つかの区分を設け、厳島神社の聖域性を守ろうとしていた。しかし、厳島神社の後方に広がる山岳部の場合、その聖域性を守る企てとは無縁であった。
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Research Products
(2 results)