2012 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
22520683
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Research Institution | Prefectural University of Hiroshima |
Principal Investigator |
松井 輝昭 県立広島大学, 人間文化学部, 教授 (70310836)
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Project Period (FY) |
2010-04-01 – 2013-03-31
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Keywords | 厳島神社 / 神仏習合 / 弁財天信仰 / 弥山 |
Research Abstract |
本年は「厳島神社の神仏習合観の変容」と題する研究の最終年度である。厳島神社の神仏習合観の変容を見通すため,厳島神社における弁財天信仰の成立,厳島神社と弥山との関わりという,二つのテーマについて検討した。まず,厳島神社は室町時代の前期になると,菩提心祈請の霊場から福徳の願いを叶える霊場へと,性格を大きく転換させたことを確認することができた。厳島神社が福徳を叶える霊場,つまり弁財天信仰の霊場となる魁は,鎌倉時代後期の天台宗教団に見出すことができる。だが,その前提とも考えられる龍神信仰さえも,室町時代の前期までは表面化しなかった。厳島神社が室町時代後期から戦国時代初頭にかけて,弁財天信仰の霊場の装いを持つようになった背景として二つの要件が考えられる。室町時代後期の瀬戸内海交易の高まりのなかで,厳島は東西交易の分岐点となった。また,瀬戸内海交易の高まりのなかで,畿内から弁財天信仰など福徳信仰の波が当地域に押し寄せてきた。厳島神社はこのような社会的な変革のなかで,戦国時代初頭には弁財天のみならず毘沙門天・大黒天をも祀る,福徳信仰の霊場として全国的に知られるようになった。しかし,厳島神社が弁財天信仰の霊場として知られるようになっても,このことが神事・祭礼に反映した事実は認められない。厳島神社の神仏習合,その変容というのも,観念的・表層的なものにとどまると考えてよいであろう。次に,厳島神社とその背後に聳える弥山の関わりであるが,通説のような山宮・里宮の関係にないことも分かった。厳島の島民のあいだでは江戸時代後期になると,弥山は厳島神社の奥の院と考えられたことは事実である。また,明治初年の神仏分離後に頂上部が瘤のように描かれ,厳島神社の後苑と本社が一体のごとく描かれた。しかし,厳島神社は神仏分離後に弥山の権益をほぼ放棄しているから,これもまた観念的なものといわざるをえない。
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Current Status of Research Progress |
Reason
24年度が最終年度であるため、記入しない。
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Strategy for Future Research Activity |
24年度が最終年度であるため、記入しない。
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Research Products
(6 results)