2022 Fiscal Year Annual Research Report
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21J00900
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Allocation Type | Single-year Grants |
Research Institution | Rissho University |
Principal Investigator |
米田 有里 立正大学, 文学部, 特別研究員(PD)
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Project Period (FY) |
2021-04-28 – 2024-03-31
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Keywords | 源氏物語 / 物語摂取 / 巻名歌 / 新古今時代 / 源通親 / 後鳥羽院歌壇 / 中世文学 |
Outline of Annual Research Achievements |
本年度は、前年度の研究成果を和歌文学会において報告した。この結果に基づき、論文化の準備を進めている。通親に関しては前年度の段階では新風の影響が窺われることを指摘した。本年度においてはさらに調査が進み、源通親の『千五百番歌合』における『源氏物語』摂取歌には、新風の影響のみならず、平安末期頃歌林苑周辺の歌人の間で見られた巻名歌が見られると明らかになった。 歌林苑は白川にあった俊恵の僧房の名で、そこで歌会や歌合が催され、多くの歌人達が集ったが、通親は俊恵や、歌林苑に出入りしていた中下級貴族の歌人達と交流があった。彼らは「寄源氏物語恋」題で『源氏物語』の巻名を一首の中に含み込み、また物語内容を意識した和歌を詠んだ。通親は夏部で巻名歌らしき歌を詠んだが、その性格は歌林苑の「詠源氏物語恋」題で詠まれたものと一致する。 これは通親という歌人を考える上で極めて重要である。通親は後鳥羽院の近臣であり、その性格は和歌にも表れている。通親は『正治初度百首』で亡妻追慕という極めて私的な感情を吐露し(久保田淳『藤原定家とその時代』)、『千五百番歌合』歌にも同様の趣向の歌が見られる(岡本光加里「源通親の『千五百番歌合』における先行作品摂取」)。これにより、後鳥羽院歌壇における通親は、正治二年の『正治初度百首』時点における六条藤家と結託し定家らの新風を受け入れない態度を指摘され、またそのような私的な性格を表出する歌人という側面が着目されてきた。しかしわずか一年後の『千五百番歌合』(各人の詠進は建仁元年六月頃)においては、早くも定家らの新風を取り入れ、また応制百首において『源氏物語』の巻名歌で歌群を構成するという、これまでにない試みも行っている。これは通親の歌人としての自負の現れであり、歌壇における通親の在り方を捉え直す必要性を示すものである。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
通親の『千五百番歌合』における『源氏物語』摂取歌から、歌人としての姿勢を明らかにすることができた。通親は建仁二年十月に没しており、『千五百番歌合』は通親にとって最後の応制百首となる。その『千五百番歌合』で通親が新風の摂取、『源氏物語』巻名歌による歌群配列など、これまでにない試みをしていることは、通親の歌人としての自負や、歌壇に臨む意欲を窺い知ることができよう。一方、正治二年の『石清水若宮歌合』では、『源氏物語』に関する言及が見られなかった。『千五百番歌合』の詠進がおおよそなされた建仁元年六月時点との差異を今後考えていく必要がある。 また忠良について、『千五百番歌合』判詞では『源氏物語』との関連を指摘するものは見られなかった上、明確な『源氏物語』摂取歌を見出すことができていない。和歌表現は新風を好んで取り入れる性格が見える一方、『源氏物語』への関心はたいして強くなかったのであろうと思われる。このような『源氏物語』に対する姿勢は、忠良の歌壇における立場をも示しているように思う。後鳥羽院によって取り立てられた新進歌人達は、時代の潮流に置いて行かれまいと、たとえば秀句的表現に飛びついて相次いで和歌を詠むなどして、のちには批判を受けたが、忠良にはそのような焦燥感がみられない。 また本年度は、前年度の段階で予定していた通り『春日社歌合』の詠歌分析を進めた。そこでは述懐性を顕わに表出しており、これは同歌合の前に忠良が官を剥がれた事情に関わると思われる。通具や通光歌には『源氏物語』摂取が見られる一方、忠良は一貫して物語摂取と距離を置いていたと結論付ける。
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Strategy for Future Research Activity |
本年度は、通親の『源氏物語』摂取について考察を続けるのと並行して、通具・通光の『源氏物語』摂取歌の調査を、特に建保期に焦点を当てて進めたい。二人は正治頃に本格的に和歌を詠み始め、後鳥羽院歌壇に新進歌人として参入したが、それぞれの立場は異なる。通具は『新古今集』撰者筆頭となり、権威性を示す役割を果たしたが、漢詩に造詣が深く、それが和歌にも表れている。『千五百番歌合』においては『源氏物語』を摂取した歌を詠むが、そのうちの何首かには妻俊成卿女の代作という問題が指摘されている(森本元子『俊成卿女の研究』、渡邉裕美子『新古今時代の表現方法』)。 また通光は後鳥羽院乳母高倉範子の子供で、後鳥羽院の寵愛を受けた。後鳥羽院と通親の近臣という関係の近さを受け継いだのは通光である。通光は建保五年に自邸で歌合を催したが(『建保五年右大将家歌合』)、その際には後鳥羽院の関与を受けている。これには後鳥羽院と通光の結びつきを強く示すものと言えよう。あるいはその『源氏物語』摂取歌にも、通親同様の性格が表れている可能性がある。 通具・通光は、建保頃には歌人として経験を重ね、順徳天皇歌壇にも主要な催しにおいては出詠を求められる立場になっている。歌人として成熟しつつある段階の詠歌を見ていきたい。
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