2012 Fiscal Year Research-status Report
イタリアにおけるゴシック建築文化受容の複層性に関する研究
Project/Area Number |
24560792
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Research Category |
Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
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Research Institution | Aichi Sangyo University |
Principal Investigator |
石川 清 愛知産業大学, 造形学部, 教授 (40193271)
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Project Period (FY) |
2012-04-01 – 2015-03-31
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Keywords | 建築史・意匠 / 西洋史 / 様式史 |
Research Abstract |
平成24年度は文献資料の収集とその解読、並びに複層構造を視覚化するためのマトリックス作成と情報のデータベース化の準備をした。特に一番欠落している部分である、⑥フランス貴族趣味の影響下にあった国際ゴシックからの影響については、他の位相と歩調を合わせる意味でも早急に着手した。まず、フィレンツェの14世紀半頃にみられるゴシック建築装飾に着目し、それらの系譜をフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院のドメニコ会からの流れで考えるべきか、あるいはシトー会バディア・ア・セッティモ修道院との関係で考えるべきかを検討した。まさにフィレンツェのゴシックは本研究の鍵となるからである。スタルニーナやジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ等、フィレンツェの国際ゴシック画家からの影響や、その頃ドメニコ会サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院のスペイン礼拝堂のフレスコ画に従事していたアンドレア・ボナイウートとの接点にも着目した。彼が描いたフレスコ画の中にゴシック様式で飾り立てられたフィレンツェ大聖堂の設計原案が表現されているからであった。この接点からは、⑥の位相であるフィレンツェにおける前近代的フランス貴族趣味としての国際ゴシック、③フランス教皇によるアヴィニョン教皇庁からのゴシックの影響、②托鉢修道会ドメニコ会、特に当時その総本部となったサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院における建設活動との関わり、という重層する坩堝の可能性を秘めており、その複層性を確認することができた。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
3: Progress in research has been slightly delayed.
Reason
中世におけるイタリアと北ヨーロッパの建築の差異は、様式や図像による従来の建築史的分析からだけでは理解することができない。歴史的文脈、建築の構成手法、そして2地域の歴史的地理的条件の違いを含む、より深層の構造から理解されるべきであると考える。中世後期のイタリア建築のゴシック受容の問題を解明するには、イタリア・ゴシックの再定義なしに取り組むことは困難である。イタリア・ルネサンス建築を長年研究し続けてきた私にとって、ルネサンス文化をより深く理解するためにはその前時代精神であるゴシックの受容システムをイタリア側から把握することが肝要である。ゴシック建築文化の受容の複層的構造とその諸相を政治的文化的視点をも踏まえて総括的に捉えることが本研究の目的があるが、19世紀以降のイタリア人研究者たちは、イタリア再統合とヨーロッパ中に同時発生した国家主義的雰囲気の中で、ゴシック研究においてフランスの影響とその優位性に抵抗し、中世イタリアに持続していた古典主義との強い結びつきを強調し、フランス・ゴシックの重要性を最小限に留めようと試みた。現在においてもなおヨーロッパ人研究者にはいやがうえにも国家主義的な偏向がかかるこの学際的問題に対して、イタリアを専門とする日本人研究者が公正な普遍的判断を提示することは極めて意義深いことではあるが、平成24年度は、上記目的である偏見の全体像をつかむことと、フィレンツェとそこにあるドメニコ会修道院サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院の分析に終始してしまい、複層性の構造を解明するに至っていない。
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Strategy for Future Research Activity |
今後の研究の推進の方策としては、①から⑥まで並列的に並べた中で、最終的には③フランス人教皇・枢機卿による移入と④アンジュー家による移入が最も重要なものとなり、受容の複層性生み出す重要な因子であると予想できるので、早くその問題に着手したい。1261年から1285年まで教皇庁はほぼフランス人教皇や枢機卿によって掌握されていたが、ローマ人による外国人への反発からローマの近郊都市に居住することを余儀なくされた。しかしながら結果としてそのことがイタリアへのゴシック様式の導入を推進することになった。クレメンス4世は居住したヴィテルボの教皇宮殿においてゴシック様式を導入した。一宝、シャルル・ダンジューは、シチリア王国征服後にレアルヴァッレとヴィットリアの2つのシトー会修道院に政治的理由でゴシック様式を採用し、シチリアの晩鐘後の支配の手立てとした。このフランス人教皇・枢機卿と為政者たちの位相の重要性が増している。いち早くその問題に着手できるように努力したい。
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Expenditure Plans for the Next FY Research Funding |
上記③フランス人教皇・枢機卿による移入と④アンジュー家による移入にその重要性がありつつも、①観想修道会シトー会による移入と②托鉢修道会フランチェスコ会とドメニコ会による移入の問題を整理しておかなければならない。12世紀半頃のシトー会によるイタリアへのゴシック様式の導入が最初の事例である。イタリアにおけるシトー会建築の顕著な事例は、カザマーリとフォッサノーヴァの修道院であり、サン・ガルガーノの建設に大きく関わっており、どちらもブルゴーニュ・ゴシックの形態をとる。しかし、サン・ガルガーノは、当時流行していたピサ風トスカーナ・ロマネスクの影響も受けており、古典的な部分もみることができる。また、托鉢修道会によるゴシック様式のイタリア導入は、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院にみられる。このドメニコ会聖堂に採用されているゴシック様式は簡素化されたもので、シトー会のゴシック聖堂から影響を受けている。この聖堂にみられる「フィレンツェ風の支柱」は、後に大聖堂や公共建築の中にみることができ、それは修道会から都市へと普及していった事例を示している。特にドメニコ会の助修士の中には建築家の役割を担う者がおり、修道院死者名簿にはフランス・ガスコーニュ出身の助修士が数多く記載され、彼らがフィレンツェに初めての大規模リブ・ヴォールト架構技術その他ゴシック要素をもたらした可能性が高い。これらの検討とともに、ボローニャにあるイタリア・ドメニコ会の最初の拠点であるサン・ドメニコ修道院の実施調査、フランス人教皇・枢機卿、為政者たちの問題にいち早く着手したいと考える。
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