2015 Fiscal Year Research-status Report
乾隆時代における、移動する杭州詩人集団の変質と展開に関する研究
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26370421
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Research Institution | Fukuyama Heisei University |
Principal Investigator |
市瀬 信子 福山平成大学, 経営学部, 教授 (50176294)
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Project Period (FY) |
2014-04-01 – 2017-03-31
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Keywords | 中国文学 |
Outline of Annual Research Achievements |
清代に杭州詩壇は、雍正初年の「南宋雑事詩」の制作と、乾隆初期の名士による詩会という二度の隆盛期を迎える。このいずれの時にも中心にいたとされるのは、厲鶚であるが、杭州詩壇のリーダーと目された詩人が他にもいた。それが周京である。周京は文学史上の評価が曖昧で、杭州詩壇を浙派ととらえた上で、その重要人物とする論考もあれば、全く取りあげられない場合もある。この矛盾は杭州詩壇をどうとらえるかという視点の違いから生じるものである。そこで、周京に焦点をあてて、改めて杭州詩壇の性質を見なおそうと試みた。周京は厲鶚らとの唱和で名を挙げた後、詩名を以て各地を放浪し、乾隆年間はじめに本格的に杭州詩会に復帰し、詩会の領袖に奉じられた。乾隆期の杭州詩壇は、それまで杭州以外の地の詩社や北京で活躍した名士たちが次々に帰郷し一堂に会した、いわば名士の集合体であった。この時期の杭州詩壇の詩人を「浙派」そのものと見る見方もあるが、「浙派」の特徴である、難解特殊な語句を詩に取り入れる詩風と、周京の豪放平易な詩風は正反対のものである。その周京がリーダーだったことから、杭州詩壇を浙派そのものとする考えは誤りであると結論づけた。また康熙雍正期の杭州詩壇の「南宋雑事詩」に象徴される学問的な詩風と異なり、乾隆期の杭州詩壇は、様々な詩風を受入れた柔軟な態勢であったことを明らかにした。更に周京が詩会という一時的な場での領袖であったため、文献資料が多くは残らず、当時領袖とされたにもかかわらず、その存在が次第に杭州詩壇の記録から消えてしまったことを考察した。 更に、乾隆詩壇が詩人達の死や流出とともに衰退した後、杭州での集団での詩の制作が限界を迎え、やがて袁枚のような個人の詩を重んずる詩人の登場を招いたと考えた。そこで袁枚の個人重視の作風を探るため、代表作である「祭妹文」の前身となる「女弟素文伝」「哭三妹五十韻」の分析を行った。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
これまで、杭州詩壇の移動する詩人達の文学活動の実態を明らかにするために、揚州、天津といった地方都市で塩商の元に移動して活躍した杭州詩人の活動について調査を行ってきた。今年度は、遠遊して各地を転々と移動した詩人の活動に焦点をあて、地方での文学活動をまず調査することとした。その上で、遠遊、塩商の詩壇、官僚としての赴任地へと散っていた各詩人たちが、乾隆始めに再び一斉に杭州に集合し、詩会の隆盛を讃えられた時期の杭州詩壇について調査し、詩人達の移動とその後の詩壇の状況の変化、詩風の変化などについて明らかにすべく研究を進めた。 地方を遠遊した詩人としては後に詩壇の領袖となった周京を取りあげたが、予想と異なったのは、放浪した先の地方誌にほとんど記録がなかったことである。そこで各地の詩人の作品集に当たることとし、台湾などの研究所で文献調査を行ったが、詩会の詩は、詩題にそのことを記さないものが多く、実態をつかむのが困難であり、研究は杭州を中心に進めることとなった。このことから逆に、出版を伴わない詩会が、当時の人気にかかわらず、記録から抹消されるという事実が認識された。 乾隆初期の杭州詩壇の隆盛期に関しては、寺院が詩会の舞台となったため、寺院関係の資料が必要となった。更に『武林掌故叢編』と各詩人の詩集から、関係記事を集めた。南屏詩社を中心とする杭州詩社の研究は、近年中国で進んでおり、入手できる資料も増え、データベースも活用して比較的高率よく作業が進んだ。周京の『無悔斎集』は、地方での詩人の活動を知る貴重な手がかりであると同時に、乾隆初期の杭州詞壇を知る上で貴重な資料である。ただ、日本国内に所蔵される版本と中国に所蔵される版本に重大な相違点があることがわかり、資料の見直しに迫られた。最終的には周京の文学活動と杭州詩壇との関連を明らかにするという当初の目標に到達し、論文にまとめることができた。
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Strategy for Future Research Activity |
移動する杭州詩人達が、再び杭州詩壇に戻って詩会の隆盛を迎えてから約10年後、詩会は衰退したとされる。そこで今後は、杭州詩壇が衰退した時期である、乾隆十五年以降数年間の杭州詩壇に注目し、当時の記録を集め、いかなる状況が生じたのかを克明に調査し、衰退の状況を明らかにしてゆくこととする。そのためには、当時の詩会に参加していた詩人たちの作品集と、杭州の地方資料の調査が必要になる。地方資料に関しては、『武林掌故叢編』、『杭州史料別集叢書』『武林坊巷志』等を中心に、杭州の寺院資料まで含めて文献調査を行う。また詩会の資料は地方誌に残らないものが多いため、各詩人の別集及び年譜などをこまめに調査する必要がある。効率化のためには、できるだけデータベースを揃えて活用することとする。また浙江文学に関する文献が、近年立て続けに出版されており、それらの資料を揃えてゆくことが研究の助けになる。更に、版本によって、記載内容が異なる例が多いため、国内外の研究所、図書館において、なるべく多くの版本を見ることが必要となる。そのために国内外に出張して調査を進める。 また、袁枚の『随園詩話』は、杭州詩会の隆盛と衰退に関する見聞と筆者自身の考えとを記す貴重な資料である。集団の詩作に翳りが見えて来た後、杭州詩会を評価しつつ、独自の個人的な詩作を尊重する袁枚が登場し、時代を席巻したことは、杭州詩壇の衰退と変質を考える上で重要であると考えられる。そこで袁枚の詩文集、詩話及び書簡集などから、杭州に関する記述を拾いあげて考察を進めることとする。更にこれまで文学評論として、格調説と対立するものとしてのみとらえられてきた袁枚の性霊説を、杭州の集団の詩作に対する反発という見地からとらえられるのではないかという観点から見直し、杭州詩壇から袁枚への道筋を辿るべく考察を進めることとする。なお、研究成果は学会で発表し、論文にまとめる。
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Causes of Carryover |
ほぼ予定通り研究を進めたが、海外出張の期間がやや短くなったため、2万円ほどの繰り越しが生じた。
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Expenditure Plan for Carryover Budget |
今年度は、中国で新たに出版された杭州関係の文献を購入し、更に年譜資料に関するデータベースを購入して、調査を進めることとする。また乾隆初期の杭州詩壇の隆盛が終わったとされた時期の杭州詩壇の状況を知るため、昨年度調査できなかった日本の研究所や中国、台湾に出張して調査することとし、出張費用を多めに使用する予定である。
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