2003 Fiscal Year Annual Research Report
中国東魏・北斉時代仏教美術にみられる先進性と保守性について
Project/Area Number |
15520079
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Research Institution | University of Tsukuba |
Principal Investigator |
八木 春生 筑波大学, 芸術学系, 助教授 (90261792)
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Co-Investigator(Kenkyū-buntansha) |
小澤 正人 成城大学, 短期大学部, 助教授 (00257205)
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Keywords | 北斉時代 / 東魏時代 / 仏教美術 / 墓葬美術 / 北響堂山石窟 / 鞏県石窟 |
Research Abstract |
北朝(386〜588年)仏教美術の様相が一変したのは、550年代以降、北斉、北周時代に入ってからである。それ以前と異なり、像は肉体の存在を強く主張する。インドや東南アジアなどから新たな情報が大量に流入したことが、転換の原動力となったと思われる。その変化がいち早く明らかとなったのが、北斉初代皇帝(文宣帝)により造営された北響堂山石窟北洞(550年代初頭)であった。これまでの北洞研究は、そこに現れた西方的要素に注目したものが多かった。しかし実際窟内部に入ってみると、北洞が必ずしも新たな形式だけで構成されているわけではないことに気がつく。窟形式や内部装飾に関して、北魏後期の石窟、とくに鞏県石窟諸窟第1〜4窟(520〜527年頃)との間に多くの共通点が認められる。鞏県石窟の場合、内部は仏教的理想空間であると同時に、漢民族神話上の神々によって護られる場所であり、皇帝が祖霊と邂逅する場であった。石窟自体が墓室と類似したイメージを持つと考えられるのである。北洞は現在でも「高歓墓洞」と呼ばれ、中心塔柱上層の列龕奥には、文宣帝の父である高歓の枢が置かれたとする言い伝えを持つ穴が存在する。それゆえ窟全体のシンボリズムに関しても鞏県石窟の正当な継承者と見なすことが可能である。本研究では、鞏県石窟の持つ民間信仰的要素が継承された結果、墓葬美術との融合という面で北洞がいかなる発展を遂げたか考察した。しかしそこには、西方的なリアルな造像がなされたことから分かるように、生のイメージも強く現出していた。北洞工人たちが望んだのは、北魏後期に顕著な死と直結した空間の創出であったが、またそれを撃ち破るインド、東南アジア的な具象性であり、活き活きとした生への希求も強く認められる。この点において、北洞は北魏後期仏教美術の末裔である以上に、次代の隋、唐仏教美術へ繋がる石窟であったことを示しており、それがもっとも評価される点であるといえる。
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Research Products
(1 results)