Research Abstract |
『清内閣蒙古堂梢』全22冊のなかから, ダライ=ラマ6世・ラサン=ハン・サンゲ=ギャムツォ・青海ホシュート部首長層自身が康煕帝に宛てた題本・表文を収集・翻訳し, かれらが康煕帝の側近であったシャンナン=ドルジ・アーナンダらをどのように認識していたか,また康煕帝がシャンナン=ドルジ,アーナンダという, 異なるタイプのモンゴル系側近を, なぜ同時に西寧に赴任させ, チベット・青海問題にあたらせたか, そのことが実際に効果があったかを検討した。 また, 当該時期の内陸アジア政策を含む清朝の統治政策について, 江戸時代の知識人はどのようにして情報を得ていたか, また理解の到達点はどのようなものであったかを,18世紀初頭の事例として, 荻生北渓の著作を中心に考察した。その結果,清朝が満洲族皇帝をいただく征服王朝であり, 伝統的な中華王朝とは異なり, 権力が分散的状況にあったこと, 官僚制よりも側近によって統治をおこなっていたことを, 荻生北渓が理解していたことを明らかにした。その成果は, 論文「江戸時代知識人が理解した清朝--日清関係の一側面」『別冊環清朝とは何か』 第16号 (印刷中) として公にした。 さらに19世紀初頭の事例として,志筑忠雄の 『二国会盟録』 を中心に考察した。その結果,志筑忠雄が清朝皇帝の王権が, チベット仏教を介してモンゴル帝国大ハーンであり元朝皇帝であるフビライの王権を継承するものであり, 清朝とロシアとが何とかプラグマティックにネルチンスク条約を締結できたのは, 両国がモンゴル帝国の継承国家だったからであるという理解に, 志筑忠雄が到達していたことを明らかにした。その成果は論文 「『二国会盟録』からみた志筑忠雄・安部龍平の清朝・北アジア理解--江戸時代知識人のNew Qing History?--」『社会文化史学』 第52号 (印刷中) として公にした。
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