Research Abstract |
本研究は,小説の「書き出し」が読者を想像世界へ引きずり込むための技巧が絡み合った,読み手の感性に拘束された場であるという仮定のもと,まず1880年代のスペイン小説に観察される書き出しの一定の形式の「始まり」を,スペイン文学史上に探ることを目的とするもので,本年度は,パルド=バサン(1851-1921)の80年代最後の2作品に関する論考をすすめることを予定していた。 ところが,第6作『母なる自然』La madre Naturaleza (1887)の書き出し,降雨の描写-「見つめる人」が設定されず,身体感覚との連関の乏しい-に,同時代の風景描写に共通して見受けられる印象主義・自然主義的な感性を援用できないことが明らかになった。そこで,「自然」を悦楽に供する場として,上下2分割の構図で描き出すという文学表現の源を文学史上に探る作業に着手した。 結果,パルド=バサンがみずから編集長を務めた地方誌に,スペイン語に訳出されたばかりの『ダフニスとクロエー』を絶賛する書評(1880年)を著していること,古代ギリシアの読物に,果実のめぐみが上下2段に区切った構成で人工的に描き出されていることが判明した。 『母なる自然』で,主人公の二人が愛を成就させるまでの場の描写において,風景の魅力をなす「至幸」が漸次的に増加していく点からも,当時のパルド=バサンが風景描写のトポスlocus amoenus(悦楽境)を継承していたことは明白であり,事実,ギリシア・ローマの古典への賞賛は,彼女の批評的言説にたえず見受けられる。 科学万能主義が席巻した観のある19世紀後半,古典への憧れなど時代錯誤と思われるかも知れないが,そこにはギリシアやローマへの憧れが常に明滅していた。本成果は,ヨーロッパにおける「現代」の始まりと「古典」の伝統とのつながりを示唆しており,価値相対主義が自明となる現代の出発点の考察において,ギリシアやローマという絶対的価値の存在を軽視すべきでないことを提起していると言える。
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