2023 Fiscal Year Research-status Report
The Drug Policy of Nazi Germany and East Asia
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22K01374
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Research Institution | Kyushu University |
Principal Investigator |
熊野 直樹 九州大学, 法学研究院, 教授 (50264007)
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Project Period (FY) |
2022-04-01 – 2026-03-31
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Keywords | ナチス・ドイツ / 独亜阿片交易 / 封鎖突破船 / 潜水艦 / 輸送過程 / 馬来軍政 / バダビア / 「満洲国」 |
Outline of Annual Research Achievements |
当該年度における最大の研究成果として、長年の課題であった「満洲国」からナチス・ドイツへ輸出された阿片の輸送過程の全貌が実証的に明らかになった点を挙げることができる。アジアからヨーロッパへのドイツ海軍統制下の最初の封鎖突破船は、1941年4月20日に大連から出港した「エルベ」であった。1941年4月~1943年10月において36隻の封鎖突破船がアジアからヨーロッパへ出航し、そのうち16隻がボルドーに到着して積荷を届けていた。その一方で1941年9月~1943年4月において23隻の封鎖突破船がヨーロッパから日本へ出航し、そのうち16隻が日本に到着した。 1943年に横浜で阿片を積み込んだ4隻の封鎖突破船名とそれらの消息がこれまで不明であったが、今回、これらが明らかになった。その4隻は「オゾルノ」、「リオ・グランデ」、「ブルゲンラント」、「ヴェーザーラント」である。「オゾルノ」のみが、ボルドーに阿片約5.4トンを輸送しており、途中にバダビアに寄港し、馬来軍政から直接生ゴム等の戦時物資を輸入して積み込んでいたことが判明した。当時の独「満」の阿片輸送ルートは、奉天→大連→横浜→神戸→バダビア→インド洋→喜望峰→大西洋→ボルドーであった。 その際、「満洲国」から日本への阿片の輸送過程において、大連から横浜までは阿片を昭和通商がチャーターしたと考えられる日本船が輸送した。独「満」間の阿片交易の輸送の仲介者は、昭和通商であった。 当該年度の研究成果としてとりわけ重要なのは、独亜阿片交易においてヨーロッパの目的地への阿片輸送に成功したと考えられる封鎖突破船と潜水艦が明らかになった点である。それらは「コルテルラーツォ」、「タンネンフェルス」、U-178号、「オゾルノ」、伊8号、U-188号、伊29号であった。これらによって少なくも阿片約16.6トンが目的地に到着していたことが判明した。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
1: Research has progressed more than it was originally planned.
Reason
これまでの研究成果を通じて、ナチス・ドイツが「満洲国」から輸入した阿片は、「昭南」(シンガポール)や日本軍政下のバダビアやスラバヤを経由して、直接ヨーロッパへ輸送されていたという史実が明らかになっていた。しかしながら、独亜間の阿片の輸送過程の実態についてはこの間不明であった。特に1943年に「満洲国」からナチス・ドイツによって輸入された阿片21.5トンが大連から横浜まで輸送され、そこでドイツの封鎖突破船4隻に積み込まれた史実までは把握していた。しかし、その後の阿片21.5トンの行方と封鎖突破船4隻の消息はまったく不明であった。 今回、これらの不明であった封鎖突破船の名前とそれらの消息及び阿片の行方の全貌が明らかになったことは、研究史上画期的であったといえる。しかも、第二次世界大戦期において独亜阿片交易において、実際にアジアからヨーロッパへ阿片を輸送できた封鎖突破船名と潜水艦名およびその数が明らかになった点も重要である。さらに、第二次世界大戦期において実際に阿片をナチス・ドイツは少なくとも約16.6トンをヨーロッパの目的地に届けていた事実が判明した点も貴重な研究成果であったといえる。 以上から、現在までの進捗状況は、(1)の「当初の計画以上に進展している」と評価した次第である。
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Strategy for Future Research Activity |
H.-J.クルークらの研究によって、1941年9月から1945年4月までアジアからドイツへ総数260,228トンの貨物が輸送され、総数112,061トン(43.0%)がドイツに届けられていたことが明らかにされている。封鎖突破船の損失率に関しては1942年までの損失率と1943年以降の損失率は大いに異なるが、全体の損失率は45.8%であったとされる。戦後、ドイツ側も国際検察局(IPS)側も独亜間の阿片を含む戦時物資の輸送の成果について「成功」と評価していた。 ドイツ側や国際検察局らが「成功」と評価していた戦時物資のなかで、少なくとも約16.6トンの阿片がヨーロッパの目的地に到着していたと考えられる。その阿片がナチス・ドイツによっていかなる用途でどのように使用されていたのかについての解明が今後の研究の推進方策の一つとなる。その解明には、ナチス・ドイツの阿片を始めとした麻薬政策の実態を明らかにする必要がある。「安楽死」殺人にモルヒネが使用されており、これらとの関係の検討が必要となる。それとともに「満洲国」の阿片を始めとした麻薬政策の実施過程、特に断禁政策の実施過程とその転換を実証的に検討する予定である。さらにそれらとナチス・ドイツの麻薬政策との比較研究を行う予定である。 また阿片以外にもペルビチン(覚醒剤)の原料である麻黄やエフェドリンを東アジアからナチス・ドイツは輸入しており、これらの輸送過程のさらなる解明もまた今後の研究課題として残されている。また戦後のこれらをめぐる独亜関係についても実証的に検討していく予定である。その際、日本では1951年までは覚醒剤は合法化されており、ドイツでは1941年に非合法化されていた。戦後における日独の覚醒剤をめぐる対応と政策の相違等をも検討する予定である。 以上が、今後の研究の推進方策の概要である。
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Causes of Carryover |
当初予定していた国内外での史料収集の日程において他の重要な用務を行う必要が生じ、そのために旅費を計画通り使用することができなかった。翌年度は精力的に史料収集を行い、関連学会や研究会等に積極的に出席する予定であり、さらに大型の史料集や比較的高価な同時代史料を購入する予定である。
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