研究概要 |
今年度はギリシア教文の伝統の哲学面での代表者たるニュッサのグレゴリオスを取り上げ、その主著『モ-セの生涯』と『雅歌講話』に即して、特に自然・本性(ピュシス),徳(アレテ-),超出・志向(エペクタシス)といった基本概念を吟味し、東方教父の愛智の基方的動向を見定めた。自然本性は古代ギリシアでは「自ずからなる自律的なもの」を意味し、全体として何らか完結した秩序を為すものとして捉えられていた。然し他方。ヘブライ・キリスト教の伝統にあっては、人間を代表とする自然本性的事物の全体は、「わたしは在る、在らんとする者」たる神(ヤ-ウェ)によって根拠づけられ、かつそうした神に向かって徹底的に開かれたものとして、甚だ動的な構造のもとに捉えられた。従ってそこでは、形相なり実体なりの同一性が一義的に尊ばれるでのはなく、むしろ形相的実体的な同一性を絶えず越えてゆくかのような生成のダイナミズムが問題の中心軸を形成しているのである。それゆえ、存在すなわち神の現成のかたちとしてのエペクタシス・アレテ-は、超越的な善へと絶えず脱目的に向ってゆく自己超出的な動性を有するものとなるが、グレゴリオスはそこに人間的本性の完全なる姿を見ている。このことは、神の似像として創られた人間がその歴史的な実現に向けて、つねに超越的なもの・無限なものに開かれ、しかもそうした存在(神)の顕現・宿りと成るべく招かれているということでもある。「神の受容」、「ロゴスの宿り」というかかる事態は、自己探究のうちにロゴス・キリストの現存を見出してゆくことでもあった。この意味で、ヒュポスタシス的結合(ロゴス・キリストの受肉)とは、単に特殊な教義に留まるものではなく、人間たることの成立それ自体に普遍的に関わってくるのである。ともあれ、こうした自然把握、人間把握は、今日我々の自己把握に対して、一つの根本的反省を促すものでもある。
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