漢字が日本に伝来した時、日本には未だ文字が無かった。漢字はまず日本語を表記する文字として用いられ、その後、漢文を日本語の流れに沿って理解する漢文訓読法による漢文教育が行われるようになった。このことは、日本人が漢字を外国語の文字と認識することを困難にし、日本人の漢文を外国語文とする感覚を希薄にさせた。その後、江戸中期、漢文訓読法による伝統的な漢文教育を批判し、漢文直読法による革新的な漢文教育を提唱する荻生徂徠が現れた。彼は、漢文は中国語の発音と文法に従って読み、日本語の口語に訳すという方法によって、初めて正確に理解することができるとし、これを学問の最良の方法とした。ここで重要なのは、漢文を日本語としてでなく中国語として読解しようとしたことである。彼の主張は、後に秋山玉山により熊本藩の藩校時習館の学則「時習館学規」第六条として藩校教育の中で明確に規定された。これにより、長い間伝統的な漢文訓読法による漢文教育が行われてきた中で、漢文直読法による漢文教育が初めて、学校教育の中に取り入れられた。 江戸時代に中国語教育が興った背景には、鎖国以降、長崎で行われた中国貿易があった。長崎には江戸時代を通して一万人以上の中国人が往来し、日中貿易では中国語が広く用いられた。幕府は日中貿易の管理統制し、必需品を調達するため、貿易の現揚で中国語を操れる人材が必要とした、慶長八年、長崎奉行を補佐し唐人貿易を管理する世襲の役職として唐通事が設けられた。最初の唐通事は、中国から渡来し日本に定住した中国人であったが、それ以降の唐通事は、日本人との間に生まれた子孫であり、日本人であった。つまり代々の唐通事が中国語に熟達していたのは、彼らが中国人であったからではなく、家学として幼時から中国語教育を受けていたからである。長崎貿易の展開にともない、唐通事の中国語教育は爛熟し、漢学者の中国語教育に影響を与えていった。
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