研究課題
国際学術研究
1991〜93年度にわたる今次のマヘ-ト遺跡(舎衛城址)における調査は、1987〜89年にかけてインド考古局と関西大学の共同で行ったサヘ-ト遺跡(祇園精舎址)での発掘調査の成果を受けて、両者が考古学的にどのような関係にあるのかを追求する目的で実施した。すなわち、両遺跡ともに仏陀の時代、すなわち紀元前6、5世紀に原始仏教教団と密接にかかわっていたことは仏典などの文献記録に語られるところであり、それらを生み出した当時の社会の物質的側面を検討することに主目的を設定した。調査は第1年度(1991年度)に遺跡内の踏査と発掘区の設定および次年度以降の本格的な発掘調査に備えての地形測量図の作成を行い、第2年度(1992年度)・第3年度(1993年度)に発掘調査を進めた。既往の調査成果を考慮して、調査区は未調査であった遺跡の北半部に設定し、その中でも良好な資料の遺存が期待されたス-ラジ・クンド(太陽の池)と呼ばれる直径約30mの円形の池の周囲に顕著な遺丘が集中する地域を発掘区に選択した。第2年度以降の発掘調査では、初年度に作成した測量図に基づいて発掘グリッドを設定して発掘調査を進めた。その結果、西暦1世紀以降の煉瓦積建物のほか、少なくとも紀元前8、7世紀に遡り得る時期の炉や土壙などの遺構を検出した。考古学的には黒縁赤色土器・黒色スリップがけ土器・北方黒色磨研土器といった精製土器によって特徴づけられ、歴史学的には仏陀が活躍した時期も含めた前6〜4世紀の十六国時代、前3世紀のマウリヤ朝の時代を包括する。数多くの成果が得られたが、主なものをまとめておくと、第1に北方黒色磨研土器の出土によって、仏陀が在世していた時期にはすでに人々が恒常的に居住しており、むしろそれがマヘ-ト遺跡の中心年代であったことが判明したこと、第2に遺構の点で、その時期には焼成煉瓦の使用が本格化しておらず、柱穴の検出によって木造構築物がその中心であったこと、第3に、マヘ-ト遺跡では明らかに仏教とのかかわりを示す資料は出土しなかったものの、原始仏教の時代と紀元後の仏教が発展した時期では遺物組成に大きな相違がみられたこと、などを挙げることができる。サヘ-ト遺跡で検出し得た遺構・遺物は紀元後の時期に中心を置くものであり、その僧院は多量の煉瓦を使用して築かれたもので、汎北インド的に定型化した形態を持つ。それに比較して、マヘ-ト遺跡で検出された遺構は、もちろんそれが仏教に関わるものである証拠は得られていないものの、木造を中心としていた可能性が高く、サヘ-ト遺跡の盛期の景観とは異なったものであったと想定できる。今の段階ではこれより進んだことを断言することはできないが、仏教を支えた物質的基盤には大きな差違があったことは想像に難くない。当該時期の文献学的研究の成果を考慮に入れると、マヘ-ト遺跡の中心時期であった前6〜3世紀という時期は、仏教教団の成立はもとより、都市の出現から国家の形成へといたる非常に大きな社会変革のうねりを経験した時期であった。こうした変革は当然のことながら社会の物質的側面としての考古学的資料にも反映されているはずであり、3ヶ年にわたるマヘ-ト遺跡の発掘調査で得られた成果と既往の他地域での調査成果を勘案すると、考古学的にも1つの大きな変化が看取できる。こうした問題は南アジア全体を内包する非常に大きな問題であるが、その解明に対して当時すでに都市として繁栄していたマヘ-ト遺跡が提供しうる潜在的可能性は非常に高い。したがって、この遺跡における本格的調査の継続が望まれる。
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