日常的な知と行為の総体は、膨大な非知の集積のうえに成立している。たとえば私の身体について、私は、それがどのように息をし、どのように消化するかを、通常ほとんど意識していない。身体は、ひとが生まれながらに抱えこんだ、内部の自然にほかならない。われわれは、自然に関する部分的な知に基づいて、自然を技術的に統御することを不断にこころみている。身体という内なる自然もまた、それをめぐる基本的な無知にもかかわらず、知と理性とが操作し、ときに抑圧する客体となる。たとえば子どもは、泣きさけぶのでなく沈黙し耐えることを、手足をばたつかせるのではなくことばで説明することを教えこまれる。〈ことば〉のうちに宿るとされる理性が、しだいに身体をのりこえてゆく。だが、身体は結局、こうした統制の裏をかきつづける。私からは見えず、対話の相手には無防備に曝されている私の顔の表情が、言語化されない内容を、たとえば自分の発言に対する疑念、逡巡、否定をすら、否応なく伝達してしまう。語られることばには、〈声〉という肉体がまとわりつき、自分の声の調子を、私は完全に操作することはできない。ひとは、自分の発言の意図しない〈ふくみ〉すら、ときに十分には制御しえないものである。外部の自然がときとして、人間の予測と制御の振幅を超えでて、その始原的な威力をふるうように、ひとの内なる自然とされるもの、つまり身体も、それがひとの〈知〉と操作の辺縁をかたちづくることにおいて、理性を揺るがし、ときに混乱させる。その意味で、身体は、私の〈内部〉でありながら、私の〈外部〉とつながってしまっている。言語もまた、私による身体の使用のひとつのかたちであるかぎり、こうした消息を免れない。言語経験の現象学は、なによりもまず、こうした〈非知〉の自覚をこそ基底にすえなければならないのである。
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