桂園流が幕末に流行したことは著名である。が、なぜ明治に入って歌壇から姿を消さねばならなかったのか、これまでは十分に研究されてきていなかった。せいぜい明治に興った新派としての短歌の側からの研究しかその理由に及んでいるものはない。 そこで、幕末から明治期の桂園派の和歌を、その内部にたった視点から、桂園流の興起の理由から没落までをとらえ、文学史・歌学史上の欠陥を少しでも埋めようと考えた。 まず、香川景樹の桂園流が急速に広まった理由が、今までの大家の研究でも十分に説明されてきたとは言えない点に着目し、小沢芦庵の「ただこと歌」が、いつごろ広まったか、つまり、世間に受け入れられたかを考えた。すると、「ただこと歌」は、早く着想されながら、景樹との出会いにまで公表はされなかったことが判明してきた。つまり、芦庵が庶民の歌学理論として考案したものを、景樹が、やっと、「調べ」の方面から大々的に売り出し得たといえる。 景樹の千人の弟子中、直好と八田知紀がとくに長命で、かつ歌学・和歌とも有名になったが、直好が景樹の正統であり、むしろ知紀は、景樹の目指した、もっと革新的な(むしろ明治新派的な)歌学によった。時流のせいもあり、知紀の流れが明治宮廷派として主流をなすようになったが穏やかな和歌の歌風に落着いたこともあり、在野の歌人から大いに攻撃されることゝなり、桂園派そのもの終焉をむかえると同時にまた和歌も終わることゝなり、短歌の時代となったと言えよう。しかし、桂園派は明治初期に滅亡したのではなく、明治期を通じて栄えたと言うべきであり、短歌の勃興と重なりながら、少しずつその光彩を失っていったと考えるべきであろう。
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