江戸期も半ばを過ぎた頃に起こった「ただこと歌」は、今まで考えられていたよりも、随分おくれて歌壇に公表されたと考えられる。そして「ただこと歌」は、直ちに香川景樹に受け容れられ、「しらべのうた」になり、大きく歌壇に勢力を張ることになっていった。 香川景樹の門人千人といわれるなかで、その双璧は、熊谷直好と八田知紀であった。直好は師伝をそのままに重んじ、知紀は師が目指した歌論と詠歌を自分流に発展させながら、桂園派を導いた。やがて、桂園派が明治宮廷派の中心になるに至って、知紀とその弟子たち、なかんずく、高崎正風とその門下たちは、歌壇の中枢的位置を占めていった。 一方、幕末から明治に至る桂園派の発展に従って、革新を唱える新派もそれに付随するように大きくなっていった。それは、桂園派の絶頂期がその崩壊をまねいて、桂園派のみならず和歌という文芸までも文学史上のものとなり、短歌にあとを譲っていく過程でもあった。いいかえれば、桂園派が短歌という文芸を興したといってもよいであろう。
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