近年、大人と子どもの境界が曖昧になってきた。近代が生んだ子どもという概念は、いまや再び消滅しつつある。その変化は先進国において健著であるが、とりわけ日本は突出しているようである。本年度は、わが国の不登校問題と対教師暴力問題を素材にして、知識社会学的にこの変化を解明していった。 かつては、学校に行きたくても行けない「登校拒否」の扱いが教育現場の大きな問題の一つであった。しかし現在は、むしろ学校へ行かない選択を主体的におこなう「不登校」の増加が問題となってきた。子どもは、一方的に教育を施される受動的存在ではなく、大人と同等の選択権をもった積極的主体と看做されるようになってきたからである。また、子どもの側も、自らを一人前の人間と自覚するからこそ、積極的に学校外へ生きる意味を見つけようと試みるようになってきたのだといえる。まったく異なった現象のように見えながら、対教師暴力事件が社会問題化してきたのも、じつは同様の文脈で語ることができる。 常に成長することを実感できた社会においては、子どもから大人へという人間の発達段階区分もきわめて有効なカテゴリーとして機能しえた。我々の社会環境は進歩し続けているという認識が、その認識主体である人間自身もまた、より高いステージへ向けて肉体的・精神的に成長する存在であるという認識を支えたからである。社会的に成長する存在としての人間という認識は、進歩しつづける社会のアナロジーであった。しかし、現在のように豊かながらも停滞した社会の到来は、達成目標の喪失による近代的自我の自閉化とナルシシズム化をもたらした。このような社会の閉塞化によって、大人と子どもという区分の実効性は失われ、子ども期が消失していったのである。このような観点から捉えるならば、「対教師暴力問題」や「不登校問題」は、学校空間における教師と生徒のヒエラルキーの消失を反映した社会現象だといえるのである。
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