学問的知識が「脱道徳化」し規範的要素を含まない専門科学的な知識が優勢となっていくのに歩調を合わせて、戦後ドイツの技術主義的保守派などの言説は価値による秩序の統制よりもむしろ科学的知識や技術による社会秩序の調整を重視した。 なかでもシェルスキーはこのような知の変化を前提として受け入れ、現代的知識の「総合」を現実社会の機能連関のなかでなされるべきものと考え、さらにそのような専門的知識に従った意思決定を重視し、秩序問題から価値や道徳に関する事柄を排除した。 シェルスキーは、ノルトライン=ウエストファーレン州の文部大臣の大学制度諮問委員会の議長を務めるなど、1965年から70年までの大学新設の計画に加わり、現実の大学行政のなかで、自身の学問的理論や秩序観を現実化するための実践を行なった。 また彼は1960年から69年までミュンスター大学のドルトムント社会調査研究所の所長となったり、さらには70年からは研究所時代の同僚らとともに、自ら設立計画に携わったビ-レフェルト大学の社会学部に講座を持ち、同時に同大学に学際研究センターを構想してそこの初代センター理事長となり、学際的研究という彼の発想を実践した。 こうした制度化の中で彼の考えは学者共同体のサークルのなかに広まっていった。彼の後継者たちはいまもビ-レフェルト大学を中心に活動している。 またシェルスキーは、同じく技術主義的保守派のA.ゲーレンなどとともにドイツで影響力のある週刊誌『シュピ-ゲル』誌上などでたびたび取り上げられ、家族や教育制度などのテーマに関しての彼の理論枠組みが記事の中で利用されるだけでなく、彼自身の動向も記事の対象として紹介されるなど、公共空間の中でもその知的影響力を広めていったと考えられる。
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