縄文時代の居住システムは、前・中期の竪穴住居、後・晩期の掘立柱建物を主体とするものに大きく区分される。竪穴住居は、竪穴居住民の民族考古学的研究から、住居としての安定性は低いものと考えられる。一方、掘立柱建物は、北方の狩猟採集漁労民の住居との比較研究と考古学資料の分析から、長期間にわたって継続して居住される安定性の高い住居と考えられる。また、後・晩期の集落は河川の自然堤防などの沖積地の微高地に形成されることが多いのが特徴である。これは、後・晩期の生業活動の領域が沖積地の沼沢地等の低湿地まで組み込まれて広がっていて、それに伴って居住域も低地へと移動したものと考えられる。このような沖積平野の低湿地を組み込んだ堅果類等の植物質食料を中心とした食料獲得システムの発達は、後の水稲農耕受容の先適応として重要な意味をもっているものと考えられる。 一方、縄文時代の後・晩期における分節化社会の発達過程については、縄文時代の墓制、特に、副葬品のあり方から研究が加えられた。特に、子供の墓でありながら副葬品が存在する事例は、何らかの特別な階層の子供の存在が推測され、縄文時代後・晩期社会が複雑化した狩猟採集民の社会であったものと考えられる。また、縄文時代後・晩期社会の主要な食料資源であった堅果類等の植物質食料については、西日本を中心に事例を集成した。さらに、民族考古学の視点から、現在のトチノミの食習に関するフィールドワークを紀伊山地で実施した。この調査によって、灰汁ないしは灰に直接漬けるトチノミの非加熱のアクヌキの法の存在が明らかになり、縄文時代の水場遺構や湿地型貯蔵穴の機能についても、灰に直接漬ける方法がとられていた可能性を指摘した。
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