今年度の研究により、次の3点が明らかとなった。第1に、十月革命直後から、メンシェヴィキ的食糧政策としてモスクワ、北部食糧組織が非難されたが、基本的政策としそれらの間にはほとんど差異が認められないことが確認された。すなわち、従来の研究で主張されたような中央権力内での意見の対立はほとんど存在せず、むしろ中央権力と地方との亀裂が、その後の民主運動の帰趨を決定づけた。 第2に、当時公刊された農村に関する調査文献資料によれば、播種面積は20年までに著しく縮小し、より深刻なのは生産諸県でのそれは消費諸県の割合を数倍超え、明らかにロシアの穀物生産に重大な影響を及ぼしたことである。しかし、その一方で、穀物自由商業の禁止の下でも、穀物売買に関与する農民が革命前と比べてほとんど減少しなかっただけでなく、生産諸県では増加した事実である。このことは、飢餓の拡大に伴い、生産諸県の農民も穀物の購入を余儀なくされたことを物語ると同時に、内戦期に「半合法的」穀物取引のネットワークが形成されていた事実を示唆している。ネップの導入当初は穀物商業は地方的取引に限定されていたが、その後「自然発生的に」全国的規模へと商業が展開する根拠をそこに求めることができよう。 第3に、シベリアの状況についてアーカイヴ資料により、次のことが確認された。割当徴発に対する不満はコムニスト細胞にさえ存在し、ネップの導入の党大会決議は反乱防止のためと認識されていた。それにもかかわらず、ネップ導入後の数ヶ月後も食糧政策への不満は解消せず、穀物調達は進まず、それに対する抑圧的措置が継続された。ネップ体制の成立を考える場合には、一定の改善が認められた中央諸県だけでなく、ほとんど旧態依然であったシベリアの状況をその考察の対象に含める必要がある。
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