明末から清初にかけて民間の力で出版されたといわれる所謂嘉興大蔵経の具体的出版事情がどのようなものであったか、このことについての精密な調査を行わずに、その『刻蔵縁起』などに示された要項だけにもとづいて大雑把な解説を行うことは、人々を真実の理解からややもすれば遠ざけるおそれがある。本研究者はこのような自覚の下に、嘉興蔵所収の各経典それぞれの版式、各経典の巻後に刻された刊記などを逐一調査して、嘉興蔵刊刻の方針、各経典の出版時期、複数の巻からなる経典の各巻相互の出版時期の前後、各巻刻印費用の提供者などを明らかにしつつ、嘉興蔵の具体的出版事情を考察している。 調査の過程で、嘉興蔵所収経典の版式には多種類あり、刻蔵当初における版式統一の方針は必ずしも徹底されなかったこと、校勘と校記の書式に関する方針も必ずしも徹底されなかったことが明らかとなり、世上に行われている各種解説類の不正確さが確認された。 刻印事業推進の中心人物も、従来、功過格の信仰者として有名な袁了凡や明末三高僧として名高い紫柏達観などが指摘されているが、しかし、実質的には密蔵道開こそが中心であり、密蔵道開が失踪し紫柏達観が獄死した後には、〓山徳清の支援・助力が大きな役割を果たしたこと、さらには、各地の熱心な奉佛人士達の継続的活動があったことが具体的に確かめられ、このことから、こうした大小様々の活動が長期間に及んで刻印事業を継続させ、遂には告終に導いたことが推測される。 本年度の調査は、紫柏達観と密蔵道開とを中心としつつその周囲の奉佛人士達の関わり方についての基礎的調査に終始し、調査はまだ継続中であって確定的な結果を示すまでに至っていない。ただ、調査の過程で、嘉興蔵所収の所謂宗宝本を含む明代における『六祖壇経』諸テキストの流布状況がかなり具体的になってきたことは、少なからざる収穫である。すなわち明代中国ではその形跡が朦朧としていたと考えられてきた所謂徳異本系統のテキストが各種行われていたことが確かめられたこと、わずかに一種だけが行われていたと思われてきた宗宝本に実は少なくとも隔たりが極めて大きい二種類があること、が確認されたことである。
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