研究概要 |
教育とはすぐれて"知"をめぐる相互作用である。いわゆる,同和教育(それを発展的に展開するものとされる人権教育)も教育の一環であるからには,差別をめぐる"知"をいかに捉え,伝えるかが大きくクローズアップされてくるだろう。これまで,「差別はいけない」という規範的知識の伝達は繰り返し試みられてきた。また,当然のことながら,差別があるということも伝えられようとしてきたが,多くの教育実践が,それを,カテゴリーとしての被差別者を提示することによって成し遂げようとしてきた。その結果,一方には,被差別者の系譜(例えば,被差別身分をはじめとする部落の歴史)をめぐる問題構成,一方には,被害者像の構成というかたちで,いずれも,今・ここの私たちとは"異なる"あのひとたち,という二項図式を再生産してきたのではなかったか。 本年度は,ひとつには引き続き,日本とオーストラリアにおける差別のありようの比較分析を進めた。日本における差別のありようとして主要には部落差別を取りあげ,オーストラリアにおいては先住民に対する差別のありようを取りあげた。差別とは排除行為であり,この排除行為が正当化されるためには,対象と目されたカテゴリー(成員)の"他者"性が構成されなければならないが,"普通の私たち"と決定的に違う"あの人たち"という他者を構成して定位される"私たち"にとってその構成が真実に基づいているものであるかどうかは,頓着する必要のないものである。この一点からでも,差別に関して教育の果たすべき役割は明確になってくるのである。また,日常の差別は,日豪社会の比較を通して,1.(被差別)当事者がその場にいないという思いこみで行われること,2.被差別者に責任を転嫁することによる加害-被害の関係の逆転によって正当化されること,3.差別-被差別関係の非対称性が差別の"盤石"性を担保すること,4.2項図式の提示による"普通の私たち"への同化強制が意識・無意識に関わりなく行われていること,が見いだされ,それが,なくすことの困難なことがらという状況認識を招く結果になっている。(以上は,論文「差別と知識」にまとめた)。 上のような知見は,今・ここの私と日常の差別がどのように関わるのかを教育の場で考え,状況は変革しうるという認識獲得への可能性を拓いていくものであろうし,日常の常識的"知"を前提にしているがゆえに,差別-反差別のポリティクスにおいて圧倒的な優位にある差別正当化のための知識そのものを揺るがすような"知"のあり方を要請するのである。
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