人々の人権意識を高め差別問題の解決へ向けた認識と実践力を育成するはずの教育実践が、なぜ「形骸化」「空洞化」「他人事化」という結果をまねき、生徒児童にとって「差別と自己との関わりを実感でき、差別をなくすために自分にも何かが具体的にできるという自己効力感」を獲得できるようになっていないか。前年度の日豪社会における差別の比較研究から得られた知見に基づき、差別を成立させ正当化するために動員される日常知のありようそのものを揺るがせることの必要性を述べたところであるが、同和教育・人権教育の中での語法に注目すると語る者も聞く者も共有しているのが「〜される」という被差別者にまつわるストーリーである。その時、被差別カテゴリーは客体として構成され、私たち/差別されるあの人たちという二項図式によって、私たちの今・ここの関係性から排除されていく。ところが、具体的な差別行為はもちろんのこと、私たちの日常の関係性に目を向けた時、そうした二項図式の構成のダイナミズムにこそ差別の成立のカギがあり、差別と私たちの関わりがリアルなものとして立ちあがってくるのである(「当事者とは誰のことか」)。 島崎藤村の小説『破戒』は、その主人公が旧被差別身分出身の青年教師に設定されており、部落差別間題と深い関わりを持つ。それに対する評価は、文学理論はさておき、主人公の「隠す」姿勢、告白の場面の卑屈さ、告白後の逃避などをめぐって否定的評価の方が圧倒してきたと言ってよいだろう。そうした中でも、同和教育の教材としてこの小説をとりあげる実践も少なくない。そこにおいて主人公への共感は、彼をとりまく厳しい差別との対比において獲得されるという構図になっている。主人公を支えるごく少数の人々はヒューマニズム溢れる善意の人として評価される。ところが、その善意の人が、主人公のためにと行う行為こそが、まわりの「悪意ある」人々と協働して、決定的に異なる存在としての被差別者カテゴリーを構成していくことは見逃されていく。実はそこにこそ、私たち現代の読者が学びとるポイントがあるにもかかわらずである(「善意のカテゴリー化実践」)。
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