本研究は、成化本『白兎記』の校本・訳注を作成することが目的である。平成17年度は、校本を作成するための曲譜・戯曲版本もほぼ収集しおえ、校本・訳注作業もほぼ完成をみている。成化本『白兎記』の校訂・訳注本は平成18年度に出版する予定である。 以下に、本年度の成果の一部を抄出する。 成化本『白兎記』第42Aにいう「皮孤子」について、江本・兪本は校訂を行っていないが、これは「皮狐子」と校訂すべきである。「皮狐子」は「狢」の意であり、明・方以智撰『通雅』巻一は「貉」を説明して次のように言う。「北人、之を皮狐子と謂う」。また「北地に此の種多し。常に夜に人家に入り、人の気弱く彼に攝氣せらるるを取食して去る。人能く之を嚇せば、彼は忽然として見えず」ともいう。むじなが人を化かすという傳説は中國にもあり、この部分はそれをいうものである。 また、劉知遠が出世して「九州安撫使」になるというストーリーは、『白兎記』の中核をなす重要な設定であり、成化本においても第一出の「開宗・大意」で次のように要約されている。「後來加官(嚼)〔爵〕、直做到九州安撫、衣錦喜還郷」。だが、歴史上の劉知遠に「安撫使」となった事實はなく、「九州安撫使」なる職名がそもそも中国史上にあったためしはないだろう。「安撫使」とは元来軍官であり、宋・趙昇『朝野類要』「帥幕」の条は「安撫の権、以て便宜に行事す可く、俗に「先に施行して後に奏す」と謂うが如きの類なり」という。勅命を受けて「便宜行事(上司の裁可を受ける前に便宜的に執行すること)」を許された者と元来意識されたのである。『劉知遠諸宮調』が生まれた金代の制度としては、『金史』卷四七「百官志三」「按察司」の條に次の「安撫司は人民を鎭撫し、邊防軍旅を譏察し、重刑を審録する事を掌る」という。宋金の頃、「安撫使」は、軍官として「便宜行事」を許された按察官であった。また、「按察」と「暗察」が区別なく混用されるように、金朝時代には按察官が身分を秘して隠密裏に内偵を進めた事實もあった。つまり、出世後の劉知遠が身分を隱して李三娘を訪ねる展開は、「九州安撫」という架空職の設定とともに『劉知遠諸宮調』によって作られたのである。
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