最終年度は、先年度に引き続き、武谷三男に代表される戦後日本論壇での科学主義が拠ってくるところについての考察を行った。研究実施者は、武谷流の科学主義がいかなる認識論的立場に基づいているかを、2016年度に発表された本科研費による研究成果である「武谷三男論――科学主義の淵源」によって解明していた。この論文を含めた論集全体の合評会(9月、東京理科大学)が行われたので、著者として参画し、コメンテーターの指摘に応答する形で、戦後の日本科学思想史・ひいては現代日本にとっての、40―50年代日本科学論・技術論が持つ意味についての再考を行うことができた。 当科学研究費による全体としての実績について言えば、従来の日本技術論論争史の中で戦前からの流れを汲むとされる「労働手段の体系説」と、戦後に武谷らが提唱したとされる「客観的法則性の意識的適用説」との間にあって見過ごされがちな、戦時中の、最も哲学的には建設的だった技術論として、相川春喜のそれ(従来は単なる転向の産物として顧みられることが少なかった)に光をあてることができた。彼の技術論は、技術を主観的な(個々人に付随する)ものとしてでもなく、逆に冷たい客観的なものとしてのみみるのでもなく、その止揚を試みる中で公の・共同主観の領域に技術を位置づけた、洗練されたもので、戦時中の相川の技術論分野での旺盛ぶりはこの存在論的基盤ゆえでもあろう。しかし戦後、彼の技術論は戦時体制への協力ゆえに論者たちによる全面的批判を浴びるのだが、それに対して一世を風靡した武谷の技術論は、むしろ認識論的には非常に単純化されており(これは見えにくくはされているが)、実在の単なる反映論であって認識行為における媒介を一切取り払っている。このことが、傲慢ともいえる武谷の科学主義の柱となっていることをおそらく初めて、指摘することができた。
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