両大戦間期の日本における知識人・技術官僚の間での技術に関する論争は、科学と技術の関係性に関する理解を先鋭化した。敗戦後、物理学者の武谷三男は戦時中の代表的見解に異を唱え、技術を客観的法則性の意識的適用であるとした。その単純明快さゆえに人気を博した武谷の定義づけであったが、一方でそれは武谷風の科学主義への道を開くものであったと言える。研究代表者は、武谷の見解を歴史的そして哲学的な視点から見直し、彼の科学主義が拠ってくるところを探究した。それは、客体と主体との媒介を想定しない、単純な反映論であった。これに基づき、様々な武谷の態度も説明できることも明らかにされた。
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