本年はユーゴスラヴィアの民族間の不和、とくにセルビア人とクロアチア人の対立の起源を研究し、それは次の2つの要因に端を発していることを資料で裏付けた。 第一に統一国家の形成に際して、旧ハプスブルク領の南スラヴ人は連邦国家を求めていたが、セルビアは彼らの地域を併合し領土を拡大することをねらっていた。二つの国家の代表は統一国家の将来像を話し合って取り決めることなく国家統合を先行させた。その結果、旧ハプスブルク領の地域はセルビア王国と無条件に等しい形で合併することになり、当時の両者の力関係によって、統一国家の統治機構の設立と運営はセルビア側が主導権を握る形で実行されることになった。そのため、セルビアによる吸収合併の路線が事実上進行していくことになった。 第二に国家統合直後の統治のあり方が大きな問題であった。この統治はセルビア人が牛耳る行政機構によって中央集権的におこなわれ、これに対するその他の民族の抗議行動は厳しい措置で弾圧された。弾圧には警察権力だけでなく、軍隊も利用され、とくにクロアチアやボスニア=ヘルツェゴヴィナは占領地域のような状態になった。 しかし、ユーゴスラヴィアはセルビアが単独支配するには大きすぎた。そのため、民族間の不幸な対立は単線的に進行したわけではなかった。その一方で、諸政党の間には民族間対立を話し合いで解決し、統治のあり方をこの国に適した形に変えようとする注目すべき動きがあった。たとえば、1924年に民主党、スロヴェニア人民党、ユーゴスラヴィア・ムスリム組織の三党連合によって形成された「民族和解の政府」がそうである。しかし、それらは結局成果をあげなかった。諸民族の間で穏健的な解決を模索する動きがなくなり、ラジカルな解決策を求める動きが強まって民族対立は加速することになったのである。
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