本研究は、ユーゴスラヴィアを対象に、東欧の社会主義国家がこの成立時にどのような問題に解決を与えようとしたのかを探るため、この国の建国の経緯、大戦間期の国家の発展過程ならびに国家制度をめぐる民族対立とその背景要因を明らかにした。 このうち、大戦間期のユーゴスラヴィアにおける最大の不安定要因は、二番目に人口が多いクロアチア人が自治権を求め、セルビア人が主導する中央政府に対して政治的な離反と闘争を続けたことであった。それは長らく解決の見込みが立たない問題であった。しかし、1939年8月26日、セルビア人とクロアチア人の政治代表は政治協定を結んだ。この協定に基づいて両民族の合同政府が発足し、ユーゴスラヴィア王国の中に新たな行政単位としてrクロアチア州」が設置され、自治権が認められた。しかも、これはこの国の国家構造再編の一段階であり、8月26日協定はさらに残りの地域を含めて全体的な国家の再編を予定していた。それが実現していれば。残りの地域にもいくつかの自治単位が形成され、ユーゴスラヴィアは連邦制国家に生まれ変わっていたはずであった。しかし、この改革のプロセスは1941年4月の枢軸国軍の侵攻と征服によって頓挫させられた。 ユーゴスラヴィア王国の崩壊は枢軸国が軍事的に圧倒的に優勢な条件下で仕掛けられた戦争の中で起こり、この国の軍事的敗北は不可避であった。しかし、軍事的な劣勢よりも大きな問題は、この国が戦争に巻き込まれたとき、国民のモラルが極度に危うい状態になっていたことである。わずか12日で無条件降伏したユーゴスラヴィア王国軍の抵抗はあまりにお粗末であった。それば、1930年代に国家の統一と再建を大義名分に抑圧的な体制の下で失政が繰り返され、国家と政府に対するすべての民族社会の信頼が摩滅してしまった結果であった。
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