本研究の目的は、個人史の立場から戦前における女子体育教師の確立過程をジェンダーの視点から検討することであった。 官立学校では、女高師国語体操専修科(1903-1911)と第六臨教家事科第一部、体操家事科(1914-1939)のみが体操科教師を養成していた。本年度は両校の卒業生の在職期間、在職学校、職業継続と結婚の関係、異動状況、体操科と国語、体操科と家事科の担当状況を一連の両校の「一覧」や各女学校史料や学校史、年各度『中等教育諸學校職員録』などを用いて明らかにした。ここでは職業継続と結婚、担当教科のみを述べる。 国語体操専修科卒業生は、各期とも卒業後次第に在職者数が減少し、卒業後7年から12年、25歳から30歳程度で過半数が非役となっていた。例えば、1923(大正12)年までの未婚者中、15人(44.1%)が継続していたが、既婚者54人(61.4%)中、中断せずに継続した者は3人(5.6%)に過ぎなかった。採用のために国語と体操を併せて学んだが、4期88人中40人は体操科のみの教員免許状を得ていた。長年在職している場合は、国語と体操科併任から体操科のみの担当になっていた。第六臨教家事科第一部、体操家事科卒業生の在職率は卒業後次第に低くなり、特に既婚者の在職率が低かった。1939(昭和14)年で見ると、未婚者53.6%、既婚者22.8%の在職率であった。体操科と併せた担当教科を見ると、家事、裁縫のほか、音楽、国語、作法等の免許外教科も受け持っていた。そして、これらの教科は体操科、家事科に加えて、長い間、女子教師が活躍する教科となっていく。 ジェンダーの視点から見て、結婚が職業継続を困難にし、女子体育教師が養成されてもその数は増えなかった。しかし、1939(昭和14)年において、体操科担当として長年職業継続した極少数の女子教師によって、女子体育教師が確立されようとしていた。
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