日本の前近代社会の教育をめぐる状況と特質に迫るため、教育史に仏教史・文化史の関心を重ねた調査研究を進めた。とくに日本の近世社会に発達した教育機関の一形態としての着目から、仏教諸教団が設置した僧侶教育・仏教研究機関をとりあげ、その学習者たる修学僧に関する基礎的考察を行った。 具体的には西本願寺が17世紀に設置した学林(京都)を扱い、修学僧の地方事例として阿波国の寺院から学林に学んだ僧侶について、学林の学籍簿にあたる史料『大衆階次』にもとづいて把握した。『大衆階次』に記載される約16500人の修学僧(所化と呼ばれる)のうちから、阿波国寺院出身85人をリスト化した。 中央の機構たる学林の安居制を検討するとともに、上京する地方の学習者側の状況として、阿波国の学林修学僧の出身寺院、修学期間、身分などを考察した。そして、学林修学僧を近世私塾の学習者との関係において位置づける視点を提示した。すなわち、近世最大の漢学塾として知られる咸宜園の学習者とその遊学動向を参照しつつ、学林を仏教学を専門とする私塾として捉える見方を提案した。 近世社会における僧侶の性格を把握すると、宗教者であると同時に、漢文を解する知識人であり、地元にあっては自坊で寺子屋(手習塾)や漢学塾を開く教師でもあった。そして、京都などの都市とつながって仏教学の修学を行う学習者であった。阿波国寺院が学林に送り出した修学僧は、他の私塾の学習者とどう交流し、何を地元に何を持ち帰り、それは士庶の学習者と何が違ったのか。これらの実態はまだ捉え切れておらず、史料の調査と分析の継続の必要があると思っている。
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