今年度は以下の二点を重点的に調査した。まず一点目は、弘田のベルリンでの在外研修(1928~29年)における活動である。弘田が研修のために在籍した教育研究機関名は、現在のベルリン芸術大学の前身、国立音楽高等学校(Staatliche Akademische Hochschule fuer Musik)で、弘田はここに在籍していたウォルター・グマインドル(Walter Gmeindl)教授に師事し、当時のベルリン文部省の音楽局長レオ・ケステンベルク(Leo Kestenberg)と会談していることも明らかとなった。また、ベルリン滞在中に現地の新聞Vossische Zeitungに掲載された弘田の論稿「日本の民謡"Japanische Volkslieder"」や、弘田の3人の娘たちが通っていた舞踊学校に関する新聞記事Berliner Morgenposを入手できた。前者の記事では、世界的名声の高い作曲家たちに日本音楽が正しく理解されていないことを指摘し、すなわち芸者の音楽と民謡が混同され、日本音楽=芸者音楽と誤用されていることを強く批判しつつ、酒の席で媚を売る芸者音楽ではなく、素朴な日本人の魂を歌った真の民謡を傾聴すべしと強調する点から、社会階層と音楽的趣味(ジャンル)を結びつける弘田のこれまでと同じ主張が見られた。 二点目は、弘田の舞踊家との交流である。1922年に創設された新舞踊の研究団体「踏影会」に弘田は音楽スタッフとして参加し、六代目尾上菊五郎らが出演する中村座の第一回公演の第二部の新舞踊劇「生贄」「陽炎」の二作品を作曲、オーケストラを指揮した。また、1925年に若柳吉三郎らと旗揚げした「若柳流舞踊研究会」での舞踊曲、他に童謡舞踊では藤蔭静枝の「藤蔭会」や林きむ子らとの公演にも参画するなど大正時代に勃興した新舞踊運動にも深く関わっていた。
|