研究課題/領域番号 |
19K13382
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研究機関 | 北海道大学 |
研究代表者 |
田村 理 北海道大学, 文学研究院, 専門研究員 (00768476)
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研究期間 (年度) |
2019-04-01 – 2023-03-31
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キーワード | 人権理念 / 帝国主義 / フェミニズム / ヴィクトリア朝 / 売春 |
研究実績の概要 |
人権理念は「万人は生来にして自由」の鉄則を貫徹する代わり、一定の空間および時間の中で育まれた制度や慣習、特にそれらの下で形成された支配従属、および保護恭順の関係を厳しく否定する。その淵源は、普遍志向性を持つ、ギリシア哲学やキリスト教に求められる。人権理念は、身分制と体制教会に即して社会を規律してきた、18世紀のアンシアン・レジームを打破すべく援用されたが、19世紀に入ると、ナショナリズムと科学の勝勢に伴って下火になった。しかし20世紀には復活し、国際連合(UN)を初め組織や団体の設立趣旨の中に編み込まれている。そうであれば、19世紀にその橋渡しをする動きがあったはずであると、S-L・ホフマンやL・ハントらは推測する。ただ、特定には至っていない。 本研究は、ヴィクトリア朝のフェミニズム、特に売春女性の救済を訴える運動こそ、18世紀の啓蒙主義の遺産を継承しつつ、20世紀のグローバルな人権論の再興の狼煙を上げる契機であったと想定する。神学者の妻バトラ(J. Butler)によって率いられたこの運動は、フェミニズムとしては不徹底であったため、従来は軽視されてきた。推進者の一部が、売春女性を無力で哀れな被害者と決め付けた上で、勤勉な労働者を兼ねた良妻賢母となるよう規律すべき、と考えていたからである。他方で同じフェミニストが、伝染病法の廃止を勝ち取り、その成果を、世界の女性解放のために援用しようと奮闘したのも事実である。伝染病法とは、医学の主導の下、国民の健康のためと称し、売春女性に対する性病検査、隔離治療を強制する立法である。バトラらは、こうしたナショナリズムと科学の暴走のせいで、本人の意思に反して身体への侵襲がなされてはならないという、人権理念の大前提が蹂躙されたと訴え、勝利した。さらに余勢を駆って、世界中の女性抑圧の制度や慣習の粉砕に向かった。しかし、そこには落とし穴があった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
研究の1年目に予定されていた、イギリスでの史料調査は、長引くコロナ禍のせいで、今日なお実現に至っていないものの、代替の作業が結実しつつある。 第一に、ヴィクトリア朝における売買春の学説史を整理する動向論文が概ね完成した。不測の事態がない限り、2022年度中に発表できる見込みである。この主題をめぐる英語圏の学術書や論文、特にそれら間の論争を手際よくまとめた研究は、日本ではまだ出ていないので、学界に一定程度のインパクトを与えることが期待できる。 第二に、ヴィクトリア朝の売春女性の救済運動に従事したバトラ(J. Butler)の著作を分析することで、彼女の思考と行動を明らかにした実証研究も、概ね完成している。2022年5月22日に予定されている、日本西洋史学会大会、自由論題報告の近代史部会で披瀝する手順になっている。その際にいただいた質問や意見等を参考にしつつ、本年度中に論文として発表する目処をつけられるであろう。
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今後の研究の推進方策 |
コロナ禍が収束すれば、当初に予定されていたイギリスでの史料調査に着手する。対象は、ヴィクトリア朝の港湾都市リヴァプールにおける売買春の実態である。これに関しては、史料こそ十分に残存しているように見えるものの、英語圏においてすら研究成果が少ない。先行研究が、ロンドンを除けば、工業都市マンチェスタに関心を集中させたからである。産業革命の震源地であったため、20世紀には現代的意義が大きいと見られたのであろう。しかし、売買春はその性質上、安定的、規則的な労働、家族形態が支配的な工業地帯よりも、その反対の港湾都市においてこそ発展しやすいことが分かっている。また、21世紀には、製造業を欠如する代わり、流通、金融、サービス業に立脚した、グローバル都市やそれがもたらす弊害に関心が集まっており、リヴァプールこそ調査対象として最適であるように思われる。 とはいえ、コロナ禍が収束しない可能性も高い。その場合は、現時点で完成に近づいている、上記2つの作業を結実させた後、バトラ(J. Butler)の晩年の運動に焦点を合わせる。すなわち、国際的な管理売春の廃絶運動である。バトラは、国内で売春女性の権利侵害とされた伝染病法の廃止を勝ち取った後、イギリスの植民地、さらには世界全体にその成果を普及しようと尽力した。この仕事は、彼女の死後に組織された国際連盟に継承されたため、人権理念の世界展開を見極める上でも、解明必須の対象であるように思われる。ただし、それ自体は記念顕彰されるべき偉業であるものの、他方で、それがイギリスやヨーロッパの価値をアジア、アフリカ、オセアニア地域に一方的に押し付け、支配する口実とされた側面がある点にも、注意を払いたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
コロナ禍で研究期間中に、史料調査ならびに学会参加での旅費の支出がほとんどないため。今年度中に世界での感染状況が改善すれば、当初より予定されていた、史料調査および対面での学会参加のために旅費を支出したい。
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