中国語の補語構造にはいくつかの非対称性が存在し、そのうちの一つが可能補語構造と結果補語構造の対応関係における対称性の破れである。本研究はこうした非対称性の発生と由来について歴史的な観点から明らかにすることによって、非対称性が持つ一見すると非文法的な構造に、実は合文法的な機能が隠されていることを示そうとするものである。本年は「V得消/V不消」及び「対得起/対不起」が現代漢語において常用されるにもかかわらず、「V消」や「対起」が使用されない事実を中心に、データの収集と分析を行い、さらに過去年度の研究の総括を行った。 今年度分として得られた主な知見として、「V得消/V不消」及び「対得起/対不起」についてまとめると以下の通りである。 「V得消/V不消」型の例として使用される「吃得消/吃不消」の初期例は『海上花列伝』や『九尾亀』等の特定の地域を背景に成立した作品に偏って認められることから、これらの作品が背景に持つ方言性との関連を想定できる。こうした南方方言系の作品が起源となり、民国初期の新文学運動の中で南方方言を基礎に持つ作家達によって受容され、可能補語形のみが現在の共通語の中に取り入れられたものと考えられる。この語に関する可能補語と結果補語との間の非対称性には、こうした背景が存在する。 また「対得起/対不起」とその原型として想定されるべき「対起」との関係については、清末から民国初期にかけて「〓好」等の新しい挨拶言葉の成立時期と前後して、「対得起/対不起」が現れ始めることから、「対起」が本来持っている意義が社交儀礼で要求される場において用法を些か変形させつつ可能補語形を備えるに至ったものと考えられる。したがってここでは、封建社会が市民社会に向かって変質を始めた社会的要因が、新たな語形の誕生を促したものと推測できる。またこの過程においては、間接的な形での西洋語の翻訳の影響をも想定できる。
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