研究課題/領域番号 |
20K00278
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研究機関 | 東京理科大学 |
研究代表者 |
愼 蒼健 東京理科大学, 教養教育研究院葛飾キャンパス教養部, 教授 (50366431)
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研究期間 (年度) |
2020-04-01 – 2023-03-31
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キーワード | 医学史 / 科学史 |
研究実績の概要 |
本年度は研究計画に基づき、その成果の素描を発表した。 (1)生理学者・橋田邦彦と臨床医・板倉武の交差点 二人は日本医学研究会設立の中心メンバーとして、橋田は会長、板倉は副会長を務める。板倉は1925年にフランスから帰国し、東大医学部講師として教育研究活動を開始するので、学内のどこかで出会っていてもおかしくない。明白なことは、1930年代前半には交流をしているということだ。板倉が1931年に創刊した『治療学雑誌』創刊号に橋田の原稿が掲載され、33年の第31回内科学総会にて板倉は橋田の議論を援用しながら自身の発表を行っている。橋田と板倉の授業を聞いた杉靖三郎によれば、二人は「全機性」と漢方医学の肯定的側面について同様の発言をしていた。 (2)橋田と板倉の思想的交差点、そして日本医学へ 橋田と板倉の交差点は漢方医学への肯定的関心にあった。橋田の生命論と医学論の特徴を抽出し、板倉との共通性を挙げることにする。<1>往復運動体としての学と術、基礎と臨床。橋田と板倉は、対比的な言葉をしばしば援用した。橋田の言葉を借りれば、学と術、あるいは抽象と具体。板倉に即すならば、理論と実際、基礎と臨床。二人は学=基礎、術=応用という単純な考え方を批判し、むしろその逆を主張した。<2>生理学と漢方医術の共通性:生命の全機性。二人は自身の専門を異にしながらも、生理学と漢方医術(医学ではない)は「生命の全機性」という立場を共有していると考える。橋田が思想家であるとするならば、板倉は橋田の思想に共感しながら医術の「学」化を推進した臨床医であった。<3>西洋医学と東洋医術の統一から日本医学へ。1920年代の漢方復興運動以来、漢方医学側では西洋医学と東洋医学の比較論が流行し、相互の長所を生かす東西医学統一論が出現するが、この見方に対して「日本医学」建設を唱える橋田は批判的であり、全く異なる地平からの議論を組み立てる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
『現代思想』2021年7月号に、研究成果の一部を論文(「医学論の日本主義的展開」)にすることができた。 しかし今年度も、新型コロナウィルス感染症の拡大により、資料の保管されている図書館や資料館への入館がほぼ不可能であった。 一方、研究調書にて詳細に記述した基礎文献のうち、重要文献のいくつかはは古書店から入手し研究を進めることができた。また、関連する先行研究の収集と整理も終了することできた。 さらに、海外の研究協力者との間で、オンラインでの会議が可能となり、論点の明確化などゆっくりとしたテンポだが研究を進めることができた。
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今後の研究の推進方策 |
2021年度は20年度の遅れを取り戻し、当初の研究計画通りに研究を推進することできた。今年度は当初の計画通り、22年度の研究計画を推進する予定である。 <1>「日本医学」運動に直接的に参加しなかった生理学者・臨床医 学者・漢方医の生命論・医学論について、下記のグループを中心として、その特質を抽出し、日本医学研究会との異同を明らかにする。 (A)京都帝大生理学教室「国民生理学研究会」(石川日出鶴丸教授) (B)慶應義塾大学生理学教室(加藤元一教授)と朝鮮人生理学者たち(李甲洙たち) (C)「東亜医学」運動に参加した漢方医たち <2>「日本医学」運動に参加した生理学者・臨床医学者・漢方医たちの「敗戦後」の生命論・医学論を1950年代まで追跡し、1945年までとの断絶と連続を明らかにす る。橋田の弟子たち、板倉武、大塚敬節・矢数道明(漢方医)を中心として。 <3>以上の解明と、1930年代中盤以降の「日本主義的科学論」の動向を踏まえて、近代日本医学史の中に生命論・医学論の「日本主義化」を位置づける。あわせて、 日本主義、国家主義、国粋主義、国民主義について議論を整理する。
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次年度使用額が生じた理由 |
年度使用額が生じた理由は、「研究の進捗状況」にて報告した通り、国内外の図書館、資料館へのアクセスができなかったためである。国内外の出張ができな かったことが大きな要因である。 この次年度使用額は、2022年度の出張、および書籍の購入にて使用する予定である。
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