2023年度においては、明代の中国社会で通用していた「官話」(共通語)の発音の実際を示す対訳文献資料である『華夷訳語』(乙種本)について、それまで未見であったいくつかのテキストに目を通すことができ、漢字部分については、テキスト間の異同がほぼ全て確認できたほか、塞外文字(タイ系の百夷語を表記するビルマ系の文字など)部分の異同についても部分的に記録することができた。特に、2024年3月に、研究期間全体を通じてようやく実現した海外出張として台湾(台北)に赴き、故宮博物院図書館及び中央研究院傅斯年図書館に所蔵されている計三種の乙種本の閲覧が実現した結果、乙種本の諸版本の異同状況の見通しがほぼ得られた。即ち、音訳漢字の異同状況から見て、諸本はおおむね明代の本と清代の本の二つの系統に分かれることから、清代初めに音訳漢字の組織的改訂が行われたと推測できる。但し、その改訂は、「ケンブリッジ本」の例を除き本質的なものではなく、同音字の範囲内での漢字の書き換えにとどまっていることが確認された。このことは、明代に一度作られた乙種本が、清代も大きな改変を加えられることなくほぼそのまま伝承されたことを示し、四夷館での教学が言語の変化を反映しない硬直的な内容のものであったことを窺わせる。 研究期間全体の研究を通じて得られた知見は、次の三点である:一、『華夷訳語』(乙種本)において塞外文字によって文章が綴られた「来文」と呼ばれる部分に大量の漢語音訳語が含まれ、それを材料に当時の官話の音韻体系を帰納することができた;二、上にも触れたように、異言語の発音を表記する音訳漢字の異同状況のあらましが判明し、乙種本の諸テキスト間の親疎関係の推測の助けとなった;三、上記二項の知見に基づいて当時の漢語の音韻体系を帰納した結果、四声のカテゴリである「入声」は存在したと考えられるが、声門閉鎖音の有無は依然として不明である。
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