本研究は身近な公共空間のなかから公園を取り上げ、その日中比較を通じて、公園のもつ文化装置としての側面を明らかにすることを目的としている。 本年度は、東日本大震災によって、研究のスタートが若干遅れた。しかしこの震災が研究にもたらしたものも大きかった。公園はこうした大災害に際して、避難場所としての役割以外にも、記憶を固定する装置として動員されることも明らかになった。実際に神戸にある震災関連公園等を訪ね、その現状について調査を行うことで、記憶の固定において公園の果たす象徴的な役割について考察を深めることができた。 中国調査によって明らかになった点は大きくは3つある。第1は、中国における公園は、政治的イデオロギーの道具として常に使用されてきたということである。中国内にあまねく存在している中山公園(孫文の偉業を顕彰)をはじめ、ハルビンのスターリン公園、公園内にある共産党の英雄を称えるブロンズ像など、公園は近代化を超えたイデオロギー啓蒙装置として存在しているのである。第2は、公園がそうしたイデオロギー性をものともしない人びとの生活の場でもあるという点である。公園はダンスなどの体育活動や婚活の場にもなる。第3に、こうした公園が人びとの生活を圧迫・排除する装置としても機能しているという現実である。大都市近郊では、公園造成のために農地を撤収されたり、何百年もの歴史をもつ村から人びとが一斉に追い出されたりしている。文革期にはかつての公園内での農作業を認めていたものを、改革開放後の公園保護政策で生活手段を奪われる人びともいる。こうした暴力的な生活圧迫だけでなく、観光開発などによる公園化も、人びとが伝統的に支えてきた公共空間の意味を変質させている。 このように、日中においては公園のもつ意義、意味づけには大きな違いがあり、それが人びとの生活のありように影響を与えていることが今回の調査で明らかになった。
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