計画では、天保飢饉に対する幕府代官所の対応を検討する予定だったが、慶応年間の不作時の対応に関する良質な史料が見つかったので、こちらを先に論文化した(論文①)。論文①では、信濃国中之条代官所の陣屋元村名主が代官手代の指示を受けて、北信・上越地域で米穀調達を図ったことを具体的に明らかにし、そこからこの段階の「御救」には、陣屋元村名主の機能に依拠する部分があったことを指摘した。また、彼らが米穀調達を行うに際し、他領(上田藩)の役人と共同行動をとったこと、彼らを受け入れる側の中野役所・飯山藩も一定程度米穀調達に協力する姿勢を見せたことについても明らかにし、差し迫った状況の中で諸領間の融通関係が見られたことを指摘した。一般に飢饉時の諸領間の対立関係に注目が集まりがちだが、それとは異なる見方を示した。 また、幕末の幕領(中之条代官所)・松代藩・上田藩の間を流れる用水路をめぐる相論について検討し、用水路の維持管理についても、必ずしも自領優先ではなく、他領の百姓の生活維持にも配慮した裁定を諸藩が下していること等を確認した。これも論文化したが(論文②)、8月刊行予定で、まだ頁数が確定していない。地域社会と領主の関係を捉え直す糸口をつかむことができた。 この他に、堤防組合惣代を勤めた豪農が、訴訟のため江戸に行って、そこから国元へ盛んに書き送った書状をもとに、幕末の千曲川治水について検討した。堤防建設をめぐっては両岸の村々が対立しあい、江戸での訴訟に発展したが、訴訟関係文書だけでなく、書状を分析することで、同じ陣営内部での対立や温度差、幕府要路への様々なルートを通じた働きかけなど、表からは見えない情報を得ることができる。このテーマについては、引き続き作業を進めて、論文化していきたい。
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