飯田地域における研究では、羽場曙友会生産森林組合所蔵文書、下伊那教育会所蔵野原家文書、飯田市歴史研究所所蔵「信濃国伊那郡上飯田村田畑山林地引絵図」について史料調査を行った。そして、それらの史料を用いて、飯田町人のうち上飯田村内に耕地を所持する者が同村に対して負担した「町貫」の実態解明を行い、近世城下町の町人が農村に耕地を所持したことの意味を追究した。その結果、(1)近世初頭の城下町建設に際して、伊那谷各地から移住した町人の多くが、上飯田村を中心とする近郊村のなかに新たに耕地・山林を取得したこと、(2)飯田藩は町人が近郊村の内部に所持した土地にかかる村役を免除したこと、(3)17世紀後半から18世紀初頭にかけて、城下町において「御定借」と呼ばれた特権的商人が台頭し、上飯田村など近郊農村のなかに新たに耕地所持を拡大させたこと、(4)そのことは近郊村の財政状況を圧迫したこと、以上を解明した。 小布施地域における研究では、平松快典家文書の史料調査・撮影を終了することができた。その結果、(1)小布施村がA.幕領町組I、B.幕領町組II、C.幕領林組、D.松代藩領林組に分かれ、それぞれに名主が置かれていたこと、(2)それらは幕領であるABCと松代藩領であるDという政治的区分とともに、定期市が立ち物資の集散地であるABと、栗の生産地であるCDに区分され、小布施村が複雑な内部構造を有していたこと、(3)平松家は松代藩領林組の名主として、また、大規模経営を行う栗農家として政治的・経済的ヘゲモニーを有していたが、そのことは小布施村の複雑な内部構造のなかで位置づける必要があること、を明らかにした。 以上、2つの地域を取り上げることにより、近世地域社会における都市と農村の関係を把握するうえでの論点を提示することができた。
|