8月までは、昨年度までに収集した関連資料の整理・検討を行いつつ、1902年の家畜の疫病対策法をめぐる内務省とゼムストヴォ(地方自治体)との関係に関する論文の執筆を行った。8月末から9月半ばにかけて、サンクト=ペテルブルクに資料収集のための出張を行った。国立歴史文書館では、1902年家畜疫病対策法の制定、1903年の同法改定、及びその後の同法の施行に関する内務省資料を探し、閲覧した。国立図書館では、いくつかのゼムストヴォ参事会の報告書等を主に閲覧し、1902年および1903年法に関するゼムストヴォ側の意見・反応を知ることができた。 新たに閲覧した資料から、内務省獣医療局が、1903年7月、数県の県ゼムストヴォの獣医療部門の責任者を招いて、法律執行のための訓令案を検討させたことや、1902年法と1903年法が、施行には至らなかったことが確認できた。その主な要因は、疫病予防のために処分された家畜への補償の財源不足であると説明されている。 その後、1909年の時点でも、内務省が、適用上の問題により、この法律を直ちに施行することは出来ないと述べていることなどから、1903年法は、地方の獣医療の実態に合ったものではなかったと言える。 1893年に始まった動物の疫病対策における法整備は、紆余曲折の末、ほとんど実際的な進展をみないままに終わった。こうした状況は、地方の実際的な行政分野に対する内務省の対応全般に多かれ少なかれ当てはまることであり、1902年法の発布とその改定問題が明らかにしたことの一つは、19世紀末から20世紀初頭の政府の政策作成・執行能力の欠如であると言えよう。また、1902年法の改定問題が、ゼムストヴォ・リベラル運動が展開する中での内務省とゼムストヴォの関係、および内務省と全体としての政府との立場の相違を映し出したことも改めて確認出来た。
|