今後の研究の推進方策 |
引き続き、Casale/Molzberger(2018)に依拠しつつ、1945年以後のドイツ連邦共和国におけるストゥディウム・ゲネラーレの理念・カリキュラム・社会的機能の変化を分析する。併せて、ガダマーの伝記から、ガダマーの思想形成の歩みにおけるストゥディウム・ゲネラーレの位置づけを確認する。ガダマーの思想形成の歩みはブレスラウ時代(1902年から1919年まで)、マールブルク時代(1919年から1939年まで)、ライプツィヒ時代(1939年から1947年まで)、フランクフルト時代(1947年から1949年まで)、ハイデルベルク時代(1949年から退官の年の1968年まで)、さらに,欧米各地で講義や講演をし,ハーバーマス(Habermas, J. 1929-)やデリダ(Derrida, J., 1930-2004)と論争した時代(1968年から没年の2002年まで)に区分することができる。1949年にヤスパース(Jaspers, K., 1883-1969)の後任としてハイデルベルク大学の教授になったガダマーは、ストゥディウム・ゲネラーレの創設当時、連続講義「大学の本質と構造」を担当していた。その内容は「ドイツの大学の理念、大学の社会的発展、大学の組織的構造、大学の法的地位、公共生活における大学の機能、大学の財政、講師や学生に関係するあらゆる問題、高等教育制度に関するドイツと諸外国の相違点」等を一瞥するものであった。この歴史的事実から、ガダマーの哲学的解釈学と教養論を捉え直すならば、対話による公共圏の形成とその過程に参加する市民の形成という教養教育の問題が浮かび上がってくる。それは専門諸科学の間の対話,大学と社会の間の対話によって公共圏を構築しようとするものだった。今後は、解釈学と公共圏の関連性をより明確にしていくことが研究課題となる。
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