本年度では、昨年度に引き続き近代ドイツにおける細菌論の普及プロセスについて研究を進めた。本研究の「目的」として、ヨーロッパ社会の衛生観念が具体的にいかなる過程を経て今日のように不可視の病原体に恐怖する心性として形作られたのか、その歴史的経緯を解明するという点にあった。この研究目的に照らし、「研究実施計画」では19世紀後半からヨーロッパ社会で流行した衛生博覧会というイベントを、本研究の考察にとって最適な事象として取り上げることにしていた。映画やラジオが普及する以前の社会にあっては、この博覧会こそ商品の広告や民衆啓蒙のための、最大にしてほぼ唯一のイベント形式となっていたからである。 上記のような研究計画に沿って、本年度の研究活動を進めた結果、その成果の一つとして論文「コッホ細菌学と衛生博覧会:ドイツ衛生運動史序説」(『史境』第68号、2014年)を刊行した。ここでは考察の範囲を1880年代にドイツで初めて開催された衛生博覧会である「全ドイツ衛生・救命博覧会」にまで遡らせたうえで、20世紀初頭にいたるまでの衛生学者による啓蒙戦略を分析した。その結果、パストゥールやコッホによって確立された近代細菌学は、それ以前の瘴気論にもとづく衛生学の学説を「科学的」な根拠や手続きに則って放逐したのではなく、衛生博覧会という場で来場者に「知性の犠牲」を強いること、つまり学説の内容を納得させるのではなく、顕微鏡や標本写真などによる「感動」を植えつけることで、社会的認知を得ようとしていたことが明らかとなった。 ここから、細菌学が社会の衛生観念を根底から変えることができたのは、決してその学説の有効性によるのではなく、むしろ非科学的な次元での瘴気論との権力闘争で勝利を収めたからではないかという仮説を立てることができる。
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