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2004 Fiscal Year Annual Research Report

唐宋期龍門の中核寺院大奉先寺の研究

Research Project

Project/Area Number 04F04253
Research InstitutionKyoto University

Principal Investigator

曽布川 寛  京都大学, 人文科学研究所, 教授

Co-Investigator(Kenkyū-buntansha) FORTE A.Erika  京都大学, 人文科学研究所, 外国人特別研究員
Keywords中国 / 龍門石窟 / 佛教 / 大奉先寺 / 文彦博
Research Abstract

中国河南省洛陽市の龍門石窟は中国佛教石窟遺跡の中で重大な位置を占め、佛教の歴史から見ても非常に重要な遺跡である。龍門石窟の造営は北魏時代の五世紀末に始まり、唐代初期に至って最も繁栄した。その当時、龍門地域には石窟だけでなく、いくつもの寺院が建てられ活動を行っていた。正に仏教王国と言っても過言でないほど龍門地方の佛教信仰は盛んであった。唐代龍門の寺院は現在は残っていないが、文献に多くの記述をみることができる。文献中で最も注目に値するのは、唐の詩人、白居易が言及した「龍門十寺」という語句である。大奉先寺は龍門十寺の一つで、唐高宗の詔勅により679年に設立され、「大寺」の地位を有する大寺院であった。文献によると、大奉先寺は少なくとも元代までは活動続いていた。その後は大奉先寺の姿は文献の中から消えてしまう。1980年代、中国の研究者の調査によって、龍門石窟西山(龍門山)の南に位置する遺跡が大奉先寺であると推定された。次いで1997年にイタリア-中国の共同発掘調査が開始され、現在も続行中である。発掘調査により、地表に現れていた遺跡が正に大奉先寺の一部であることを明らかにし、そのうえ大奉先寺の歴史に関わる重要な資料を発掘した。その中には仏像や石碑なども含まれている。石碑で最も完全な資料は北宋の文彦博(1006-1097)により書かれた詩で、呉越国の王である銭鏐(852-932)の孫、銭易が作った文章も残碑に記されていた。これらを文献に当たり詳しく調べた結果、文彦博と龍門、さらに大奉先寺との密接な関係が明らかにされ、北宋時代の大奉先寺が、朝廷と関わりのあった官僚や知識人の間でかなり重要な存在として認められていたことが明らかになった。

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Published: 2006-07-12   Modified: 2016-04-21  

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