2004 Fiscal Year Annual Research Report
中世文芸における花と自己変容-世阿弥能楽論を中心に-
Project/Area Number |
04J06423
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Research Institution | Kyushu University |
Principal Investigator |
岩倉 さやか 九州大学, 大学院・人文科学研究院, 特別研究員(DC2)
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Keywords | 中世文芸 / 世阿弥 / 花 / 幽玄 / 心 |
Research Abstract |
本年度は、世阿弥能楽論の全体構造を捉えるべく、主著である『花鏡』を中心に、全能楽論を精読し、二つの論文にまとめた。以下、新たに得られた知見を述べる。 1、まず探究の始めとして、能が現出してくるときの、成立の場そのものに目を向けた。そこにあって、態をなす演習自身は、造化の根源ともいうべき無限なるものに晒され、そこから生命を汲み取っている、そして、かかる端緒にあってこそ、演習が目指しゆく終極のものたる「まことの花」が、無限なる落差を否応なく伴いつつも現前してくる.この端緒と終極との密接な関わりがすなわち「序破急」である. 2、次に、演者が様々な態を具体化してゆく様と、そのときの心の在り方について,『花鏡』の具体的な文脈に即して考察し、序破急の全体構造が、個々の場面でいかに息づいているかを浮彫りにした。そこでは、無限なる造化の働きを受容する媒介として、「心」が重要な役割を担っていた。そして、その心を媒介として、それぞれの態が舞台に現出し、ひいてはそうした心と態とが、全体として花の顕現へと披かれているのであった。 3、その上で、個々の態の現出の内に潜んでいる、「花」の成就と展開の問題を、改めて全体として吟味した。「花」は一方で、ある無限なるものがそこへと披かれゆく心に宿り、態として現出したものであり、そこには根源の働きに貫かれたという確かさがある。しかし他方、この世の態はどこまでも限定したものである以上、無限なるものを十全に宿した、いわゆる「まことの花」は、この現実の世ではあり得ない。よって、われわれにとっての花とは、その都度ある完成・成就を示しつつも、さらに上の境地を目指して披かれゆき、その都度絶えず変容してゆくべきものとなるのである。
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