2001 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
10610405
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Research Institution | HISTORICAL MUSEUM OF HOKKAIDO |
Principal Investigator |
山田 悟郎 北海道開拓記念館, 総務部, 主任学芸員 (00113473)
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Keywords | 畠 / 畝跡 / 火山灰 / 寄生虫 / 雑穀農耕 / 擦文文化 / ヒエ / アイヌ文化 |
Research Abstract |
13世紀から18世紀初頭にかけた石狩低地帯や日高地方、噴火湾岸のアイヌ文化期7遺跡から、コメを含めたヒエ、アワ、アサなど11種類の作物が出土している。また、石狩地方や日高地方の1667年に噴出した樽前b火山灰や1739年に噴出した樽前a火山灰下から出土した鍬先や鋤先、鎌などの鉄製農機具や、噴火湾岸で発見された1663年年に噴出した有珠b火山灰や1640年に噴出した駒ヶ岳d火山灰で直接埋積された畠跡の存在は、アイヌ民族によって農具を使用して畝をもった畠が造られていたことを示している。畠の規模は長さ10m前後の畝が10列前後からなる小規模なものだが、発見された砂丘上や台地上一面に広がっており、小単位の畠が継続して造られていたことを示している。畠跡の土壌からは寄生虫卵も検出されており、施肥を行っていたことも明らかになった。 また、アイヌ文化の遺跡で農耕活動の痕跡を辿ることができた8遺跡の内5遺跡では、その下位から擦文文化の遺構や農耕活動に関わる遺物が発掘され、擦文文化から近世初頭のアイヌ文化まで雑穀を栽培した農耕活動が継続していたことを示している。石狩、日高と噴火湾岸には、交易品生産の傍らで農耕活動が行われ、擦文文化の要素が残存していた。 近世後半期の記録にはアイヌ民族によった農耕は、鍬や鋤などの農具を使用せず、畝をもった畠を造らず、施肥をせず、除草もしない粗放的な農耕と記載されているが、自ら望んでそうしたのではなく、1669年の「シャクシャインの戦い」後に松前藩によってアイヌ民族統治の強化や、鉄製品の供給制限と粗製化の強行によって、アイヌ民族が鉄製農具を保持することが出来なくなった結果と考えられる。
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